ズルカの記事

園芸を始めて1年のまとめと感想

ひょんなことでキダチアロエの大株を譲り受けたのが2022年の11月28日、これを便宜的にわたしの園芸の開始とすると先日で1年が経ったため、とりあえずささやかな総括と、あまり明確な動機もなく始めてはしたお給金を消費し続けているこの庭から何か得たことがあると思いたいので、いい機会として記したい。


2023年11月28日時点で、扱った植物の総計は179種類。
うち一年草などライフサイクルに伴い育て終えたものが6種類。失敗の枯死が15種類。現行で生育中のものが158種類。
このほか、オンラインで購入し到着を待っているものが14種類。


失敗例を考える。明らかに、ホームセンターやお花屋さんなど店頭で出会ってあまり調べもせずに衝動買いしたものに偏る。
かわいいから植えたい、で植えたものはあまりうまくいかない。それはわたしの育て方が悪いのではなく、その植物の性質が弱いのでもなく、環境が合っていなかったというそれだけなのだと思う(合わない環境に持ち込んだわたしが悪いというようにも思わない)。
一方で、環境が合うかどうかでいうと耐寒性ゾーンやら地域スケールで示される可否に懐柔される必要もなく、同じ敷地の中でも日照や土壌などにはかなり差異があり、少し場所を変えるだけで元気に成長してくれることもあった。


失敗ではなくとも無駄もたくさんあった。最初期に植えたラベンダーなど、鑑賞性や効能よりも耐寒性耐暑性に振り切った選び方をした上で支柱を立てたり雨よけのマルチングをかけたりなんか、今考えると馬鹿みたいにいじらしいことをした。
キダチアロエを植え付けた時は、発根のサインだと頭では分かっていながら地上部の痛み具合に気が気でなく、日本アロエセンターに画像付きで問い合わせたりもした(育て方の質問相談もどうぞとは書いてあったので……)。

過干渉が功を奏すことはあまりない。わたしは情報をひたすら漁るオタクタイプなので、事例を追って机上の知識を得る時間と目の前の個体に向き合う時間を行ったり来たりしながら手慣れてき、また扱う数が増えていくことで、徐々に手の抜き方を覚え、生物の強健さを信じられるようになっていった。賢くやるのは難しいけれど、施行回数を増やして空振りを繰り返すのでも、できるようになるのならそれもまた手段だと思った。


元々憧れていたのは店や住居の軒先に植木鉢がごちゃっと並んでいる風景だった。自宅近所の古いけれど活発な商店街などはそうした植栽で溢れていて、絵付きの陶器鉢でアエオニウムやゼラニウムが切り戻しなんてされず好き放題伸びていたり、アガベやラン、コーデックスなどアーバンで流行り物の植物が褪せたポリバケツなんかに入れられて俗っぽい日本の家並みに馴染んでいたりする自由さが魅力的だった。
植木鉢栽培が良いのは、花が鉢ごとに独立し全体を見たときに花どうしの相性の概念が無くなる点でもある。並べ替えもできるし。しかし扱いたい植物の種類は際限なく増えていき、鉢だけでは間に合わなくなった。


我が家はおそらく雑草が酷くならないようにとの考えで、敷地の広い範囲をウッドデッキが覆う作りになっている。その他の部分は雑木やササ、枯葉ばかりのでこぼこの急傾斜で、地植えをしたければここを開拓するのが命題だった。開拓を具体的には、掘り返し、土留めを作り、土を入れる、この繰り返しである。剪定鋏と100均スコップを携えて素手で切り株やササの地下茎をひたすら排除していく作業は今考えると尋常ではない。土を買ってくるのも重労働で、加えて今夏の灼熱と蚊の襲撃に苛烈を極める日々だったが、平らな地面が草で隠れているのとは違い、地面がなかったところから地面、"面"という部分を発見し、なぜか敷地の面積自体が広くなっていく、という不思議なプロセスに快感があった。夏も終わり大部分を開拓しきった後も、雨どいにシュロ縄をかけて鉢をつるしたり、側溝にプランターを嵌め込んだり、コンクリートの亀裂にもグランドカバー系の根を詰めたりと、あらゆる部分に何かを植え得る可能性を見る。
端材をどけた小さな窪みに土を入れ2苗植えて精一杯だと思っていた時に所有していた自分を楽にする謙遜ワード「狭小庭」の文字を、インスタグラムのbioから消した。


ガーデニングと言うのか庭の景観を意識した園芸となると、花期、草丈、色や形、と主にこの3つを考える必要があると分かり、立体的な頭の使い方を一切できないわたしは素直に諦めた。なんか、3D空間の棒グラフアニメーションが脳裏には浮かぶ。脳裏には。初めの頃はイラレで表を描いていたし、blenderとか油粘土で敷地をモデリングしようかとも思ったけど、いずれもうちの前述のようなつぎはぎ花壇には難しかった。デフォルトメモに花の名前を書き出して、あとは頻繁に写真を撮るのが身の丈に合った管理方法である。


そのつぎはぎ花壇の中に、海浜植物ゾーンがある。植物に特段興味を持ち出したのも、海沿い地域にあるこの家に引っ越してきてそこかしこに見かける海浜植物の魅力に惹かれたのが始まりだ。「かわいいから植えたい、で植えたものはあまりうまくいかない」、と前述した通り、海浜植物は海岸に生えているのがいいんじゃないかと思っていたけれど、それでもやっぱり庭で育ててみたくて、採集してきた小さい挿木から発根させたりして15種類くらい育てている(園芸用としても広く認知されており海浜植物と括るべきか曖昧なものもある)。


特にお気に入りはハマユウだ。海浜植物に限らず、好きな花はと聞かれたらハマユウと言うに決めている。一時期頻繁に通っていた道沿いにずらっと生えていて、通るたびに立ち止まらずにはいられなかった。ヒガンバナ科らしい細くしなった花弁の花の、苞から開花し枯れていく経過はどこが頂点ともなくシームレスな感じがあり、結実するとそのぬらっとした光沢のある実がピンポン球大に膨らむほどにまるでその自重でかのように花茎が傾き、ごとんと地面へ頭を付ける。その一連の動きや全体の大きさに荘厳な生命感、圧迫されるような物体感がある。

(出典:ハマユウ | Crinum asiaticum var. japonicum | かぎけん花図鑑

自分とこのハマユウはまだまだ葉にうねりもないくらい小さい。咲く日はいつになるのか、待ち遠しくてたまらない。


海浜植物はその生育環境の過酷に耐えるための工夫が他の植物と区別できる草姿にさせている。ちょっとエキゾチックな印象のものが多いと感じるのだが、それは外国と言ってイメージするのは大抵湿度が低めで土壌の水はけがいい土地で、それが日本では海岸くらいだからか。


目的に特化することで結果的に現れてくる視覚要素を美しいと思う。市井の純粋生活行動を外から消費するヒップな階級のビジュアルワークに対するうんざり感の反動かもしれない。もちろん園芸品種が人間にとっての鑑賞価値を高めるための改良をされたりもし、それを人間を利用した生存戦略と言うのかは分からないけれど。
植物にとっての目的を殖えることと置くと、その回答が種によって本当にさまざまであることが良い。全く真逆の考え方がどちらが極端に不利ともなく共存し存続しているさまの安心感。植物に限らず生物体系全体に共通する多様性のシステムだが、わたしが園芸を楽しいなあと感じる理由はこれかなと思う。


あと、園芸をペットを飼育することと対比してみる。植物と動物の大きな違いは変化のスピード感だと思う。植物は動物みたいにその場で目に見える動作やリアクションをしないけれど、日ごとや月、年単位で見た時の形態変化は著しい。特に百数十と育てていると毎日全ての植物らを観察して回ることはできないので、気がついたら蕾ができていた、子株を吹いていた、などローテーションのように毎日何かしらの発見をさせてくれる。個人的には愛情や愛着は愛玩動物にも植物にも同じくらいの大きさで感じている気がして、だのに死んだときに抱く悲しみや罪悪感には天と地ほどの差があるから、その点でとても軽くて楽なのもいい。


富裕層でない人間にも植物栽培を楽しむ権利があるというテーマでやっているので、庭に関する総支出など出したかったが、夏前まではレシートを全く取っておかなかったので、正確な数字が出せず後悔。ただ毎月の必要支出から残った分の持ち金をほとんど全て、食費<園芸<書籍、くらいの感じで費やしている。この生活が持続可能性のあるものだとは思っていない。竹内浩三『金がきたら』、なのである。

 

それぞれ11月ごろの庭の様子。一部加工あり。

 

 

 

 

今度は家父長制と植物生育みたいなテーマで記事を書こうと思っています。宣言しないと書けないので……