ズルカの記事

園芸を始めて1年のまとめと感想

ひょんなことでキダチアロエの大株を譲り受けたのが2022年の11月28日、これを便宜的にわたしの園芸の開始とすると先日で1年が経ったため、とりあえずささやかな総括と、あまり明確な動機もなく始めてはしたお給金を消費し続けているこの庭から何か得たことがあると思いたいので、いい機会として記したい。


2023年11月28日時点で、扱った植物の総計は179種類。
うち一年草などライフサイクルに伴い育て終えたものが6種類。失敗の枯死が15種類。現行で生育中のものが158種類。
このほか、オンラインで購入し到着を待っているものが14種類。


失敗例を考える。明らかに、ホームセンターやお花屋さんなど店頭で出会ってあまり調べもせずに衝動買いしたものに偏る。
かわいいから植えたい、で植えたものはあまりうまくいかない。それはわたしの育て方が悪いのではなく、その植物の性質が弱いのでもなく、環境が合っていなかったというそれだけなのだと思う(合わない環境に持ち込んだわたしが悪いというようにも思わない)。
一方で、環境が合うかどうかでいうと耐寒性ゾーンやら地域スケールで示される可否に懐柔される必要もなく、同じ敷地の中でも日照や土壌などにはかなり差異があり、少し場所を変えるだけで元気に成長してくれることもあった。


失敗ではなくとも無駄もたくさんあった。最初期に植えたラベンダーなど、鑑賞性や効能よりも耐寒性耐暑性に振り切った選び方をした上で支柱を立てたり雨よけのマルチングをかけたりなんか、今考えると馬鹿みたいにいじらしいことをした。
キダチアロエを植え付けた時は、発根のサインだと頭では分かっていながら地上部の痛み具合に気が気でなく、日本アロエセンターに画像付きで問い合わせたりもした(育て方の質問相談もどうぞとは書いてあったので……)。

過干渉が功を奏すことはあまりない。わたしは情報をひたすら漁るオタクタイプなので、事例を追って机上の知識を得る時間と目の前の個体に向き合う時間を行ったり来たりしながら手慣れてき、また扱う数が増えていくことで、徐々に手の抜き方を覚え、生物の強健さを信じられるようになっていった。賢くやるのは難しいけれど、施行回数を増やして空振りを繰り返すのでも、できるようになるのならそれもまた手段だと思った。


元々憧れていたのは店や住居の軒先に植木鉢がごちゃっと並んでいる風景だった。自宅近所の古いけれど活発な商店街などはそうした植栽で溢れていて、絵付きの陶器鉢でアエオニウムやゼラニウムが切り戻しなんてされず好き放題伸びていたり、アガベやラン、コーデックスなどアーバンで流行り物の植物が褪せたポリバケツなんかに入れられて俗っぽい日本の家並みに馴染んでいたりする自由さが魅力的だった。
植木鉢栽培が良いのは、花が鉢ごとに独立し全体を見たときに花どうしの相性の概念が無くなる点でもある。並べ替えもできるし。しかし扱いたい植物の種類は際限なく増えていき、鉢だけでは間に合わなくなった。


我が家はおそらく雑草が酷くならないようにとの考えで、敷地の広い範囲をウッドデッキが覆う作りになっている。その他の部分は雑木やササ、枯葉ばかりのでこぼこの急傾斜で、地植えをしたければここを開拓するのが命題だった。開拓を具体的には、掘り返し、土留めを作り、土を入れる、この繰り返しである。剪定鋏と100均スコップを携えて素手で切り株やササの地下茎をひたすら排除していく作業は今考えると尋常ではない。土を買ってくるのも重労働で、加えて今夏の灼熱と蚊の襲撃に苛烈を極める日々だったが、平らな地面が草で隠れているのとは違い、地面がなかったところから地面、"面"という部分を発見し、なぜか敷地の面積自体が広くなっていく、という不思議なプロセスに快感があった。夏も終わり大部分を開拓しきった後も、雨どいにシュロ縄をかけて鉢をつるしたり、側溝にプランターを嵌め込んだり、コンクリートの亀裂にもグランドカバー系の根を詰めたりと、あらゆる部分に何かを植え得る可能性を見る。
端材をどけた小さな窪みに土を入れ2苗植えて精一杯だと思っていた時に所有していた自分を楽にする謙遜ワード「狭小庭」の文字を、インスタグラムのbioから消した。


ガーデニングと言うのか庭の景観を意識した園芸となると、花期、草丈、色や形、と主にこの3つを考える必要があると分かり、立体的な頭の使い方を一切できないわたしは素直に諦めた。なんか、3D空間の棒グラフアニメーションが脳裏には浮かぶ。脳裏には。初めの頃はイラレで表を描いていたし、blenderとか油粘土で敷地をモデリングしようかとも思ったけど、いずれもうちの前述のようなつぎはぎ花壇には難しかった。デフォルトメモに花の名前を書き出して、あとは頻繁に写真を撮るのが身の丈に合った管理方法である。


そのつぎはぎ花壇の中に、海浜植物ゾーンがある。植物に特段興味を持ち出したのも、海沿い地域にあるこの家に引っ越してきてそこかしこに見かける海浜植物の魅力に惹かれたのが始まりだ。「かわいいから植えたい、で植えたものはあまりうまくいかない」、と前述した通り、海浜植物は海岸に生えているのがいいんじゃないかと思っていたけれど、それでもやっぱり庭で育ててみたくて、採集してきた小さい挿木から発根させたりして15種類くらい育てている(園芸用としても広く認知されており海浜植物と括るべきか曖昧なものもある)。


特にお気に入りはハマユウだ。海浜植物に限らず、好きな花はと聞かれたらハマユウと言うに決めている。一時期頻繁に通っていた道沿いにずらっと生えていて、通るたびに立ち止まらずにはいられなかった。ヒガンバナ科らしい細くしなった花弁の花の、苞から開花し枯れていく経過はどこが頂点ともなくシームレスな感じがあり、結実するとそのぬらっとした光沢のある実がピンポン球大に膨らむほどにまるでその自重でかのように花茎が傾き、ごとんと地面へ頭を付ける。その一連の動きや全体の大きさに荘厳な生命感、圧迫されるような物体感がある。

(出典:ハマユウ | Crinum asiaticum var. japonicum | かぎけん花図鑑

自分とこのハマユウはまだまだ葉にうねりもないくらい小さい。咲く日はいつになるのか、待ち遠しくてたまらない。


海浜植物はその生育環境の過酷に耐えるための工夫が他の植物と区別できる草姿にさせている。ちょっとエキゾチックな印象のものが多いと感じるのだが、それは外国と言ってイメージするのは大抵湿度が低めで土壌の水はけがいい土地で、それが日本では海岸くらいだからか。


目的に特化することで結果的に現れてくる視覚要素を美しいと思う。市井の純粋生活行動を外から消費するヒップな階級のビジュアルワークに対するうんざり感の反動かもしれない。もちろん園芸品種が人間にとっての鑑賞価値を高めるための改良をされたりもし、それを人間を利用した生存戦略と言うのかは分からないけれど。
植物にとっての目的を殖えることと置くと、その回答が種によって本当にさまざまであることが良い。全く真逆の考え方がどちらが極端に不利ともなく共存し存続しているさまの安心感。植物に限らず生物体系全体に共通する多様性のシステムだが、わたしが園芸を楽しいなあと感じる理由はこれかなと思う。


あと、園芸をペットを飼育することと対比してみる。植物と動物の大きな違いは変化のスピード感だと思う。植物は動物みたいにその場で目に見える動作やリアクションをしないけれど、日ごとや月、年単位で見た時の形態変化は著しい。特に百数十と育てていると毎日全ての植物らを観察して回ることはできないので、気がついたら蕾ができていた、子株を吹いていた、などローテーションのように毎日何かしらの発見をさせてくれる。個人的には愛情や愛着は愛玩動物にも植物にも同じくらいの大きさで感じている気がして、だのに死んだときに抱く悲しみや罪悪感には天と地ほどの差があるから、その点でとても軽くて楽なのもいい。


富裕層でない人間にも植物栽培を楽しむ権利があるというテーマでやっているので、庭に関する総支出など出したかったが、夏前まではレシートを全く取っておかなかったので、正確な数字が出せず後悔。ただ毎月の必要支出から残った分の持ち金をほとんど全て、食費<園芸<書籍、くらいの感じで費やしている。この生活が持続可能性のあるものだとは思っていない。竹内浩三『金がきたら』、なのである。

 

それぞれ11月ごろの庭の様子。一部加工あり。

 

 

 

 

今度は家父長制と植物生育みたいなテーマで記事を書こうと思っています。宣言しないと書けないので……

5月27日を前に、木下康介選手の浦和レッズ時代に関する取り留めのない話

先日の京都vsC大阪は、木下選手にとってはJリーグ通算出場50試合というひとつの節目でもあった。プロ入り2、3年でも達成しうるくらいのこの記録は公には何のアナウンスもセレモニーもなされないものだが、数々のリーグを渡り歩いた末にJリーグにたどり着き結果を出している木下選手のここまでの選手人生がそのまま反映されているこの数字を、ファンである自分は試合ごとに指折り数え、大変めでたい気分であった。


50試合のうちJデビューからの2試合と5ヶ月間の浦和レッズ時代だけは、自分はどうしたってじかに知ることはない。これがとても口惜しく、せめて当時の様子や浦和サポーターさんたちの木下選手観を垣間見ようと、ひたすら情報をかき集めていたことがある。


演出された期待と、遠い実像。
2年前の夏、第2ウインドーがまたいくつもの出会いと別れを残して閉幕しようとしていたあの時、ほとんどの人間にとって何の前触れもなく舞い降りた入団リリース。要因は1つではないにせよ、浦和というクラブが木下選手を日本に引き戻しJリーグの舞台に引っ張り出したのだった。オンラインの会見記事と、その後に出された20分9秒のギラギラとした録画映像。JリーグTVの「No Image」は自分もおそらく目には入れていた。


メディア取材、練習見学とファンサービス、露出しうる場はことごとく感染症対策の名のもとで制限に阻まれていた。クラブの公式YouTubeが本格始動するのもまだ先の話(今の浦和チャンネル大好き)。浦和サポーターさんたちは、自クラブの所属選手だというのに有償コンテンツ内で掲載されるわずかばかりのトレーニングフォトのほか断片的な過去情報やそれらを元にしたもやっとした推察が集まってできる受け身のイメージに始終するしかなかったことだろう。


平日ナイターとアウェーゲームの80分以降投入という2度の出場の機会は声出し制限の中で名前をコールすることすらできないで、結局実在感が生まれないままに去っていった選手に対する感情の表れ方はさまざまだった。どれだけ在籍が短くとも「ウチの子」なのだとしてその後の活躍に喜びを感じていらっしゃる声は少し切なくあたたかく(それはディヴィジョンが違うからでもあったかもしれない汗)、一方で厳しい言葉、冷ややかな反応も少なくない。共通するのは「もっと知りたかった」ということだろう。後になって当時の内実が明かされると意外な答え合わせのようでもあって同情を寄せる人も見られたが、でも入団会見アーカイブをやや俯瞰的な立場で目にした自分には、ご本人から語られる言葉のニュアンスにだいぶ温度差があるようにも感じた。あのときに湛えていた熱の、間違いなくあのときにだけあった種類の熱がそのまま膨れ上がった先を見てみたかったような気もした。その世界線では自分が木下選手に思い入れることはないのだろうけど、本当はそうなっていればよかったんだ、浦和サポーターさんたちもそれを望んでいたんだろうな、などと暗いことを考えもした。


判断と実行の目まぐるしい繰り返しが身に付いているスポーツ選手の思考には多分こんなifの余地はない。「全てが今につながっている」、そうおっしゃっていたように、木下選手は常に変えられない過去を肯定し、今できる最善の奮闘をされているのだと思う。あの夏鮮烈な赤を抱き、そこに1年をかけた青が深く差したから、纏うユニフォームはいま紫となった。ファンの側としても、応援しているチームから離れてもその姿を追いかけてしまうのは、2試合とまたは38試合とその期間が無駄じゃなかったと実感したいからでもあるのかもしれない。

 

京都ホームではあるがひとまず浦和戦が週末に迫っており、これが今シーズンの大きな楽しみである。ここ数試合の出場時間はやや物足りなく、どうやら今日のルヴァンにスタメン出場されるようなので、また週末はお休みとかだけはどうかご勘弁くださいチョウサン~という感じだが、きっと今日の試合でコンディションを上げられ、週末はサンガスタジアムのピッチで躍動される姿が、あのときベールに包まれたままの木下選手をそれでも見守っていた浦和サポーターさんたちの目にようやく焼き付けられることだろう。そしてあの力強いエネルギーを持った真っ赤なスタンドを眼差す木下選手の表情が、笑顔だったらいいなと思う。

水戸ホーリーホック・木下康介選手雑感、またはそれを眺めていた半年間

 

前年応援していた伊藤涼太郎選手の新潟への順当すぎる移籍に喪失感を引きずったまま年は明け、新体制発表を一応追いつつ余暇のほとんど全てを地方局テレビドキュメンタリーアーカイブの視聴に費やしていた2022年初頭。
プレシーズンマッチは試合結果を文字上で確認し、ついに鹿島に勝ったという事実にのみただひたすら感動していた。
1週遅れて始まったシーズンは平日開催を挟みながらとんとん拍子に過ぎてゆく。キャプテン新里涼選手の苦しそうな状態に心を痛めて、新加入選手のことはほとんど覚えられないまま、あまり何を考えるでもなしに試合を鳥瞰していた。


そんな中でも何となく目で追ってしまう選手がいた。第一にでかい。でかいがすらっとしている。すらっとしているがパワフルな推進力があり、ハイプレスを仕掛けてはボールを奪うとドリブルでピッチを一気に駆け上がっていく。素人目にも周囲とはなにか一線を画している感じがした。4節の横浜FC戦など、悠々と振った足でゴム弾のようにボールが飛んでいくのでとにかくおっかなく、得点が決まっても喜びを置いてけぼりにして「うお…」と慄き引き笑いをしてしまっていた。
背番号15・木下康介選手。今シーズン、浦和レッズから水戸ホーリーホックへ完全移籍で加入したフォワード選手だ。
当時のわたしはツイートをしては後悔してすぐ消すという行動をとっていたためもっとあれこれと言っていたような気もするが、木下選手について残っているところの自分のファーストインプレッションはこれらしい。

この時に気づいていれば。得難い時間を2ヶ月も浪費してしまった。

 

それは4月23日、第11節ホーム山口戦。
試合開始30秒足らずのことだった。センターサークル付近に向かってくるロングボールに合わせて高く飛んだ木下選手は背後から競ってきた相手選手と頭部どうしで思いきり接触し、そのまま地面へ叩きつけられるように落下した。仰向けになって悶えることもなく静止している様子を、脳震盪だろうかとハラハラしながら見守る。しかしまもなくゆっくり起き上がると、スタッフに促されて自力でピッチの外へ歩く姿には笑顔も見られたので、ひとまずは安心に終わった。木下選手は頭に止血か何かのバンドを被されて再びプレーに参加すると何事もなかったかのようにまた走り回り、後半には同点ゴールを決めてバックスタンドを煽っていた。
試合は結局3-2と水戸が逆転勝利を収めた。わたしは熱闘の余韻に浸りながら、なぜだか今日の木下選手の姿を頭で何度も反芻していると、突然『木下康介選手からファン・サポーターの皆さまへ』という動画がオフィシャルLINEより通知される。
負傷のこともあるからと撮ってくださったのだろうか。頭に痛々しい手当ての跡を抱えながらも穏やかな笑顔で試合を振り返る木下選手。自分が勝手に抱いていたどことなく他人行儀な感覚とは裏腹に、水戸ホーリーホックの一員としての当事者意識を伝えんとする言葉選びに心が和らぐ(しかしながらこの動画のタイトルセンスはアイドルファン的にはギルティなのであった)。

 

とにかくもこの日何が変わったかというと、これまで当然視認はしていながらもどうも実在を訝しむことしかできないでいた木下選手の存在に対して、わたしは強烈な物質性でもって人格を認めたような気がする。本当にひどい話ではあるが、負傷によってあの強靭なエネルギーの源も細胞の集合であり一つの人体であることをようやく実感し、すると今までそれがチームの勝利に近づくことであるという点でわくわくを感じながらもひたすらおっかなかった木下選手のプレーに、美しさを見出せるようになったのだ。そればかりか大きな彼の姿に知りもしない子供の頃の情景すらオーバーラップできたりした(たまらず同居人にこの話を捲し立てると、「人はそれをギャップ萌えと言うのだよ」と一蹴された。真理)。

 

その後、改めてここまでの試合やアツマーレ入学式、キャンプレポートやPR大使ドラフト会議などのアーカイブを木下選手起点でしっかり見直し、過去のプレー集やインタビュー記事などを簡単に観測できる範囲で見回り、きっとはまり初めのこの高鳴る気持ちを忘れては後悔するぞと思い、試合や何かあるたびに簡単にでもメモを残し始めた。

 

4月27日、アウェー長崎戦。チームとしてあまりボールを前へ繋げない。なんとか渡って来てもすぐに固く囲まれる。ピッチレベルのカメラで大きく映されるライン際の攻防は諫山先生の描く巨人化アニとエレンの格闘シーンを思い出す迫力。後々描こうとしたが難しくて諦めた。身体の向きの切り替えの判断が素早く懐も深く、簡単には奪われないうまさがあるが、こうも嫌がらせのような人数でマークされては1人での打開にも限度があるというもの。孤立気味で、なかなか攻めきれずもどかしそう。しかしキャプテンが心配。

 

4月30日、ホーム甲府戦。ふわーとした春の西日が美しい。K’sスタはあまり陰ができないし、自然光の時にホワイトバランスが安定していて映像が撮りやすそう。木下選手は競ったり正面からぶつかりそうになるところで相手の運動エネルギーを利用して風に流れていくような力の抜け方が本当に綺麗で、このしなやかさは怪我を繰り返した上で身についた自分を守るすべでもあるのだろうかと考える。ランニングが軽やかで、遠景だとやはり重量を感じない。

 

5月15日、アウェー東京V戦。ゴールキーパー山口瑠伊選手のロングキックから、安藤瑞希選手が身体を張ったことで前に流れていったボールを、木下選手はタイミング完璧な走り出しで獲得し、相手キーパーとの1対1を冷静に沈める。攻撃的なゴールキーパーを志向する山口選手の、相手にプレッシャーをかけられながらも積極的な意図を持ったキックが精度の高いアシストとなった。
木下選手はかなりの確率で山口選手と一緒にいるところを見受ける。逆輸入コンビとしてシーズン前から対談特集も組まれていたお2人は長い海外生活にアジャストした外国人選手っぽい雰囲気を共有していて、歳は若干離れているが対等で気を遣わない空気感がある。実際やりとりも英語で、敬語がないから楽だそう。チームメイトにも目が合うたびウインクを投げ、いつも爽やか笑顔で老若男女に好かれる王子様的存在の山口選手が、木下選手といる時は何やら真剣に、または気だるそうに話をしているのを見ていると、きっとお互いサッカーについても一番本音を展開できる相手なんだろうなと感じる(2人ともジェスチャーが多いので会話の内容がなんとなく分かるのだ)。チームの背中を預かるゴールキーパーと、チームに背中を預けて走るストライカーというポジションは、おそらくどちらも孤独があるという点で似ているように思ったし、前と後ろの離れたところにいる2人が繋がることがチーム全体を締めるという仮定においても象徴的なゴールだったと思った。

 

5月21日、ホーム岩手戦。中継上で岩手のフィジカル系フォワード選手との比較構成が効いていて、木下選手のしなやかさ、ピッチ内を広く走り回るフットワークの軽さが際立つ。なんとなくエネルギーを出しきれない展開の中、前半28分に後列でボールを回す相手に思い切りプレッシャーをかけていき、2度3度と怒涛のボール追いで、相手がたまらず蹴り出そうとするところを最後は足に当て外に出す。ワンプレーで会場を沸かせ、チームメイトを奮い立たせた。
その直後であった。木下選手のナイスファイトに対してひときわ激励を示し、自身もかなり前がかりになっていたキャプテン新里選手の足元に、焦りもあったか相手キーパーのキックミスのボールがすぱんと飛び込んできたのだ。スタジアムじゅうに緊張が駆け抜けたあと、逆風に煽られるようにピッチ上の選手全員が一斉に岩手ゴール方向へ走り出すが、新里選手はその中心でひとりボールを持ったまま立ち止まると、細い体の全身を使って「それいけっ」とシュートを放ち、ボールは距離約30メートルをぽーんと飛んでゴールネットへ吸い込まれていった。このポジティブな未来への思い切りのよさが新里選手らしくて、深い暗闇から抜けて自分を取り戻したようなそのゴールに、安堵と興奮と嬉しさが込み上がりボロ泣きしてしまった。これで個人的には、キャプテンへの心配で埋まっていた心の容量が空いて、すっかり木下選手のことばかり考えられるようにもなった。
追加点となる木下選手の1点目は、安藤選手の得点としておいて良かったのではという声もあったがラストタッチで結構軌道が変わったように見え、あの場所にしっかり位置を取っているのもまたしたたかな実力だと思った。2点目の胸でのゴールも、どんな形でもこつこつと点を重ねていくストライカーらしいゴールだった(そして複数得点してなお、いつでもまた機会はあるでしょうとばかりにヒーローインタビューには呼ばれないのであった)。

 

しかし何かざわざわしている。このところ、なんとなくだが木下選手の所作にあの瞑想しているかのような鷹揚さが無くなってきている気がするのだ。
ハードなスケジュールが続き、既に異常な暑さ、おそらく北欧には無かったであろうただただ不快で健康を害する暴力的なこの暑さが原因か。それが楽しそうであっても張り切りまくっているのであっても、浮き足立ったような状態はあまり木下選手にとってのベストコンディションではないような気もする。しかしまあそんなものではなかったか。木下選手にも気分というものがあるのだ。翻ってわたし自身の感情の不安定を投影しているに過ぎないのか。この頃、出場メンバーの入れ替わりの激しい水戸において木下選手は当然のように試合に使われ続けていることや、個のパフォーマンスで圧倒していればするほど、わたしはその実力を喜び盛り上がるのではなく、周りに対してフラストレーションを溜めているのではないかとか、現状に物足りなさを感じているのではないだろうかとか、失礼で陰気臭いマインドに落ちていた。千葉戦、新潟戦。表情が本当に怖かった。「くれよっ」という激しいジェスチャーに萎縮しながら、しかし華やかでエキセントリックになってゆくプレーに心は引きずり込まれ、試合を観終わるとどっと疲弊した。

 

6月5日アウェー大宮戦。相馬監督体制初のホームゲームに燃える大宮へ、連敗脱出をかけて挑んだ一戦。
この日のことに言及するにはもうあまりに機を逃している。今さら直接的に掘り返すことではないのかもしれない。しかし流し書いて後を繋げたって嘘になるので、自分なりに言葉にしていきたいと思う。
試合前、広報さんのどんな気まぐれか普通見ることのないロッカールームでの選手の様子がアップされ、そこで粛々と準備をされる木下選手の写真が実に端正で美しいものであったため永久にそれを眺めていると、今度はウォーミングアップや試合開始までの映像で、やはりまたギラギラとしたオーラを皮膚の下にたたえているような姿が見受けられ、すでに自分の感情がよくわからないことになっているうちに試合が始まった。
立ち上がりから、お互いになにか神妙な集中力でせめぎ合う。水戸が前半終了間際と後半の立ち上がりの良い時間帯に2得点を決め、その後も何度もチームで前への仕掛けを繰り返していた。
61分。木下選手はハイプレスで精度を欠かせた相手ボールを自陣で獲得すると、そのまま1人2人と振り切りながら、豪速のドリブルで右サイドをぶった斬るように突き進んでゆく。コースを切られて角度が無くなり無理に放ったボールは相手に弾かれたものの、ゴール裏の水戸サポーターを大いに沸かせた。その歓声の渦の元、木下選手は勢いづいた踵で思い切り目の前のLED看板を蹴り付けたのだった。
審判チームも相手選手も、見えていなかったのか咎めなかっただけなのか、試合はそのままセットプレーに入っていった。わたしも木下選手のことばかり目で追っかけていたつもりが全く気づいておらず、ただリプレイ映像明けに抜かれた表情が今まで見たことのないくらい険しいもので、お優しい安藤選手が背中をさすって励ましていた様子だけは覚えている。2-0で水戸が3試合ぶりの勝利を収めた数時間後、唐突にクラブからのリリースが通知され固まった。ラップトップでDAZNのタブを開こうとする指がすぐには動かなかった。

 

ピッチの中での人間どうしの勝負、とりわけこうしたプロサッカーの高いレベル帯でのプレーの激しさは、単に運動量という点でなく精神にも大きく負荷をかけるものであり、その中で相手を上回るには自分を抑制するブレーキをある程度取り払うことも前提とされているのであれば、それは心を制御できなくなってしまうような閾値とすぐ隣り合わせであるのを思わされた。わたしはその上に成り立つエンタメを神様目線で提供され、消費しながら、脆弱な生身の肉体を露呈させることで発揮される身体性の美しさに興奮を感じこそすれ、そう感じることの怖さについてほとんど気に留めてこなかった、いや意識的に無視していた。ホーム山口戦で惹きつけられたのもそんな歪んだ感覚の一端で、それが向く先にこの事象が起きたことと、木下選手の心を思うと、すごく落ち込んだ。

 

いつも頭に木下選手を思い浮かべる時、その姿は大抵少し目線を落として俯いている。ああして多くの時間、試合の中でもゆったり泰然自若とした印象を受けるのは、瞬間の力を一切の躊躇なく爆発させるために、身体と心を自分の手の届く範囲に落ち着けておくよう身についたものなのかもしれないと思った。それでも激流のような衝動に支配されてしまうことがあるのだ。

 

ピッチから客席までがぎゅっと狭まったNACK5で、当看板のすぐ裏の隙間に座っていたボールパーソンの女の子が衝撃にとても怯えていた、といういくつかの証言もわたしを動揺させた。
せめてもの救いだったのは、その怒りが外部を根源とするものではなかったであろうことと、加害が人に向いたものでなかったことだ。節を重ねるごとに厳しくなっていくマークの中で、わずらわしいような接触や時には悪質と思えるようなプレーを受けることもあるが、被ファウル時にフラストレーションを溜め込んだり相手に食ってかかったりするようなところは見たことがない。いつも自分の肉体とボールだけの空間にいて相手からの干渉はただの自然現象として捉えているかのようだった。木下選手はずっと自分と戦っていた。

 

自分の心が沈み込んでいるのか浮き足立っているのかもよく分からなかった。水戸のサポーターをはじめ、大宮や浦和レッズのサポーター(その日は確かJ1では試合がなく、隣チームでライバル関係にある大宮と、木下選手はじめ何かと繋がりの深い水戸との対戦を窺う浦和サポさんが散見された)、他クラブサポーターやサッカーファン、サッカーなんてまるで興味のない外野、によって話題と名前がごちゃごちゃに増大していく風景を、遮音された窓越しに漫然と眺めていた。

 

試合から4日が経った6月9日にJリーグからの制裁が決定し、それを受けて社長会見が行われ、木下選手のコメント付きのリリースが出された。選手教育を掲げるクラブは個人に形式的な懲罰を与えてやり過ごすのではなく、問題を全員で受け止め、選手に反省と成長を促す柔軟な対応を考えていた。
フロントスタッフの瀬田さんが出されたnote記事(下記リンク)もあって、事後の様子を知り、文章であっても本人からの言葉を受けて幾分か心が軽くなった。わたしは木下選手の、非日本語圏生活の長さも影響していると思われる知的な平易さを持ったやわらかい日本語が好きだった。

 

そしてその日、ホーリーくんが「康介くんはね、今日は朝からスタッフさんのミーティングにでてたんだって。康介くんもがんばってるし、ホーリーくんも応援するぞ」とツイートをしてくれていたのだ。仕事をはっ倒した深夜、依然鬱々とした気分のままでいたわたしはそのツイートを見た瞬間、自分が今何をするべきか、何を描いたらいいのかが分かったような気がして、夢中になって1枚の絵を描き殴った。

ホーリーくんはもっとスリムでした。ごめんね

6月11日がお誕生日のホーリーくんのために、次節12日のホームゲームにはバースデーパーティーが予定されていた。キャプテンを中心に選手みんなからもプレゼントを考えているよ、なんて告知もあり、ああきっとみんなでホーリーくんをお祝いして幸せに溢れるその空間に、木下選手は出て来られないのだと想像すると、そのコントラストがとても寂しかった。しかしホーリーくんは、どうにもならないわたしたちの気持ちを背負って直接選手のそばに寄り添ってくれる。介入しづらい話題にも、そっと姿を隠しておくのではなくクラブやチームの一員としてまっすぐに出てきてくれる。クラブのマスコットとは、ホーリーくんとはそういう存在なんだと思った。「試合に勝ってハグ」、きっとそれが実現するように祈った。

 

絵を見てくださったサポーターの方々がメッセージを寄せてくださり、特に「泣けた」という言葉をいただいたことにびっくりした。人の感情を動かせるのはありがたいことだが、それよりもおそらくみんな木下選手のことをとても大好きで、些細なきっかけで涙が出てしまいそうになるほど結構傷付いていたのだろうと思われ、それが嬉しかった。
今まで出場や活躍のわりに言及が少ないなということを、情報に飢えたファンとしての不満も若干含みながら疑問に感じていた。理由を推察するに、チームの平均年齢がリーグでいちばん若いこのクラブでは、プロになりたての選手がもがき成長していく姿をまるで親戚の子供かのように見守るのが楽しいというファンも多いように見え、そんな中では27歳と年長でキャリアも豊かな木下選手は新加入にして心配かけない大人の扱いだったのだ。言葉少なに仕事に徹することができてしまうためになかなか遠いままの距離感が、木下選手自身の心を見出しづらくさせていたのだと思う。今回のことで、ここまでチームに貢献してくれていたその存在の大きさへの感謝と、しかしこちらはそれに甘えて一方的に頼るばかりで、本人に向き合う気持ちをおろそかにしていたのでは、というような各々の自省すら含む心配の声が、いくつも発信されるようになっていた。

 

わたし自身も、好きといいつついまだに少し怖かった木下選手に対しての見方がかなり変わった。木下選手はわたしが自分に見える部分から抱いていた印象よりもずっと、素直さを失わずにいられている人だと思った。
自分に確固としたものを持っていながらも、だからこそ風に流れる柳のように周囲を受け入れ、学ぶ姿勢をとり続けられる人なのだと。あの強さも、落ち着きも、余裕しゃくしゃくに身についているもののように見えていたけれど、言葉や理論で理解することと骨身に染み込ませて体現することとの隔たりをきっと自身の中で何度も感じては保とうとする繰り返しなのだろうと思った。それがすごく共感できた。

 

それからは持て余すこの期間に、今いちど昨年の浦和時代やそれ以前北欧での記録、横浜FC下部組織時代の様子、木下選手のここまでの道のりやさまざまなことについて、ネットの海を底引網のごとく漁りに漁った。見られる職業と言っても記録され残っていくものは思うよりずっと少ないことを実感すると、特に遠い地でひとり必ずしも光のもとでなく黙々と歩まれてきた木下選手の儚さに打たれ、その軌跡を追って覚えていようとする1人に自分はならなければいけないという尊大な使命感を湧き上がらせたし、何よりそうしていないと時間の進みが遅々として耐え難かったのだ。しかしおかげで、今までのいろんな想像の点と点がつながったり、知らなかった一面を発見したりして、少しずつ木下選手への解像度が高まっていったように思う。
特に印象的だったのは、プレー映像に見られるものや周りからの評価され方が、今と過去10年余りでかなり一定していることだ。早いうちに既に自身の強みを理解して、型を磨き続けている聡明さを思わされた。

 

また、大古参フリエサポさんが遥か10年前には木下選手のイメージカクテルなんてものを作っていたのを見たりして、ではわたしももうちょっと不安にならずに好き勝手自分の解釈の木下選手を描いたり言葉にしたりしてみようと勇気が湧き、この期間は木下選手にとっての「Dreamland」だ、「You float in the pool where the soundtrack is canned」だ、と妄想膨らませてホックニーのオマージュでかなりくだらないファンアートを描いたりした(『Dreamland』はイギリスのロックバンドGlass Animalsのアルバム表題曲。「You float…」は同作歌詞。音楽に疎いわたしは木下選手が選手プロフィールにて好きなアーティストに挙げてらしたことで彼らを知ったのだが、オルタナポップの無邪気で湿潤なサウンドに、ドラッグやDV、同性愛、Toxic Masculinityからの脱却など世上の題材をパーソナルに物語る人間愛溢れた音楽性で、歌詞の考察サイトを巡ったりしかなりハマってしまった。木下選手の好きがどのくらいの強度のものなのかは分からない)。
この3週間はどちらかというとわたしにとってのドリームランドだった。焦れても立ち止まらなければいけなくなった時間には、過去に思い巡らせ丁寧にアルバムを作るのだ。木下選手は長いキャリアの中で希望するパフォーマンスの実現のために最適化された結果として表れていった容姿そのものも美しく、下手の遅筆ながらも映像を見ては輪郭線を必死に追う時間それ自体が癒しになった。自分にお絵描きという手段があって本当に良かったと思った。苦しめられることの方がずっと多いけれど。

 

大宮戦から1週間が経ち、6月12日ホーム山形戦は、今シーズン大きな期待をされながらも木下選手の活躍の陰できっかけを掴みきれずに苦しんでいたフォワード梅田魁人選手が、後半投入直後に相手のミスを逃さず待望の初ゴールを決め、水戸の大勝利に終わった。梅田選手の涙のインタビューにもらい泣きし、秋葉監督の愛情深い語りにももらい泣きし、いまチームが本当に良い雰囲気であることを思わされた。それはこの週、チームメイトに頭を下げ、フロントスタッフと混ざって研修に取り組む木下選手の誠実な態度があり、それに応えるべくクラブはつとめて明るく前向きな発信をし、スポンサーに感謝し、にんにくを剥き、水戸ファミリーがひとつになって試合に臨んだ成果だった。

 

(以下、山形戦後監督インタビューの起こしより一部抜粋)

秋葉監督「ありがとうございます、ただ素晴らしいインタビューの後なんで非常に喋りづらいですけども(笑)。選手たちは本当によく戦ってくれましたし、今週クラブに色々あった中でも、こういう風にサポーター・ファミリー含めてたくさん来てくれてますし。我々水戸ホーリーホックというクラブは震災もそうでしたし、いろんなことがあっても必ず這い上がる、前を向いて立ち上がってくる、そういうことを選手、クラブ、サポーター・ファミリー全員で証明したゴールだと思ってますし、そういう勝利だと思ってますから。本当に今日3797人のサポーター・ファミリーが来てくれたからこそこういうゲームになったなと思ってますんで。まだまだ我々は這い上がりますし立ち上がって、どんな困難が待っていようが、どんなことがあろうが、我々らしくしっかりと歯を食いしばって、みんなで夢へ向かって突き進みたいなって思っています」
―木下選手不在となりましたが、前線の選手たちが前への矢印見せてくれましたね。
秋葉監督「もうその通りですね、選手誰が出ようと我々にはいつも120%トレーニングから鍛えられている選手がいますから。誰が出てもいい状態ですし、いつも言っていますけど、野心的でギラギラしたものを持っている選手たくさんいますんで。それプラス、やっぱり明治安田生命さんであったり、ホーリーくんの誕生日であったり、東海村の日があったりだとか、昨日もみんなでにんにく剥いたり、いろんないいことがあって、今日を迎えたと思ってますから。本当にこう、クラブ、サポーター・ファミリー一丸となって勝ち取った勝利だなという風に思ってます」

 

 

 

 

6月25日、2試合の出場停止期間が終わって初の試合であるホーム岡山戦。試合開始2時間前に発表されたスタメン画像、そこに木下選手の名前があった。
この日はオフィシャルパートナーであるアダストリアさんのPlay fashion!マッチで、スタイリストさんによってコーディネートされた選手が登場するバス入りファッションショーがあった。久しぶりに見られた動く姿の木下選手はハーフパンツにレギンスを合わせているのが大人っぽくて、白いTシャツが昼光を受けて汚れのない真っ白だった。イヤホンを外して耳にかけ、やわらかな笑顔で四方を見渡しては手を振り、社長に背中を叩かれてスタジアムに入っていかれる姿に、生まれ変わるような心持ちでもって戻ってきてくださったんだと胸が熱くなった。
ロッカーアウト後のアライバルでは、エスコートキッズの女の子の髪をそっと直してやって微笑んでいた。木下選手は小さな命に対する慈愛のある人だと思う。入場後には前に並ぶその女の子の肩に手を乗せていて、自分もちびのころ大好きな大和田真史選手が一緒にお写真を撮ってくださった時にそのようにされた思い出があったから、女の子の心情が伝わってくるような気がした。ちょっとびびりながらもあのどっしりと重たい感触を、きっとあの子も、もうちょっと大きくなった時に噛み締めるのだろう。

 

試合は序盤から水戸がテンポ良く攻め続ける。木下選手も連携からチャンスを連発し、その度に堅牢な岡山の守備に阻まれてもスタジアムには揺るがない気概が広がっていた。
なにより、長い長い3週間を待ったのだ。木下選手がピッチを駆ける姿が映るだけでどきどきが止まらない。それは木下選手自身も同じように見えた。なんだかものすごく楽しそうなのだ。今まで、木下選手はサッカーに対して超然とされているというか、期待や責任を背負い込むことをモチベーションにするタイプではないように想像していたのだが、これは今、試合に出て得点を目指す理由の中に実態を伴った外向きの意識を大きく持つようになったのではないか、かつそれをとてもポジティブなエネルギーにしているのではないかと感じられた。この感想はまた、得られた限りのコンテクストへの依拠にすぎないのかもしれない。でも、オレンジピンクの西日に照らされた瞳は確かな生命力に満ち溢れていた。本当にいい表情でプレーをなさっていた。


後半開始直後、ここ一番の決定機が訪れる。前田椋介選手からの縦方向のミドルパスをボックスのど真ん中でボレーのように合わせシュートするも、惜しくもミートせず枠の上へ飛んでいく。
そして後半60分。ペナルティエリア内で安藤選手が囲まれながらもキープし、ゴール目の前のスポットにぽんと抜け出した木下選手の足元へ飛んできたパスは、もう勢いのままに軽く軌道を変えるだけ、完全に決めたと思われたそのボールはしかし、目前のクロスバーをガシャッと叩き、反対サイドに逸れていった。
普段だったらものにしていたプレーだとも思った。試合勘の足りなさというものなのか、少しの高揚が精彩を欠いたのか。ここで決めていたら……。それでも諦めず、チーム全体で何度も攻撃を続ける。木下選手は手を叩き声を張って周りを、そして自身を鼓舞していた。
正式なオフサイドラインも引けないのにあれこれと言うのも何だがかなり際どい判定によって幻のゴールとなった69分のプレーの後、木下選手は交代しピッチの外に下がっていった。今日のスタメン発表以降、いやこの謹慎期間のさまざまな発信を受けながら頭に何度も妄想していたひとつ美しい形のストーリーは、そんなにうまく実現するものではなかった。それでもこの上なく感銘を受けていた。もう何も隠すことはできない、何も隠さなくていい、まっさらな木下選手がそこにただ存在していて、わたしはそれを見た。まばゆかった。
この日木下選手は交代後もロッカールームに戻ることなく、ユニフォームのままベンチに座ってじっと戦況を眺めていた。次に取ったらいいのです、きっと!

 

7月2日ホーム横浜FC戦は、クラブに関わる全ての人にとって特段エモーショナルな一戦だった。水戸では初めての声出し応援検証試合だったからだ。860日ぶりに声が帰ってきたスタジアム。声援のある中でのプレーはプロになって初めてだという選手も多かった。序盤から明らかにふかしすぎているスピード感に、彼らの興奮が伝わってきた。
前半、村田航一選手にアクシデントがあるも、急遽交代投入された後藤田亘輝選手のキレのあるクロスを木下選手が伸びやかなヘディングで合わせて相手キーパーの手を弾きネットを揺らす。抑えなくていい大歓声がスタンドから湧き上がり、タビナスジェファーソン選手へのゴールセレブレーションをやろうやろうとチームメイトを手招きする笑顔ははじけていた。
そこまでは最高だったのだが、春の対戦が蘇るような悔しい悔しい逆転負け。横浜FCにはレベルの高い戦いの中で築いてきた強固な自信と覚悟があり、焦らず修正し勝ち切る強さがあった。良いチームだと思った。しかし試合終了の笛が鳴ったときに込み上げてきた感情は、恐れず最後まで必死に走り抜いた水戸の選手たちと、水戸ホーリーホックというクラブへの底知れない愛しさだった。
バックスタンド周回の様子は圧倒されるものであった。声出し応援は一体となって歌うチャントもだが、一人ひとりが湧き上がる思いをなんとか届けようとそれぞれの言葉で叫ぶことにこそ価値があると感じた。立ち尽くしスタンドの人間たちを一心に仰ぎ見つめながら、照明の白光に眩んで降り注ぎいつまでもやまない声援をただ全身で浴びる、木下選手を含め選手たち。もはや自らはどんな意志も言葉に託すすべはないと知ったように。あの無窮の静寂。

 

夏の移籍期間が始まる。
春の段階から既に、対戦相手のサポーターやJ2を熱心にウォッチしている方々によって「水戸の木下いいよな、強奪しようぜ」「うちと対戦する前にJ1行ってくれ」等々、モノのように話されるのを目にしていた。その度に「この恐怖を誰もが知っているはずなのに、好き勝手言いおってからに……!」と画面を睨んでは呪詛を送ったりTwitterでは無言のいいねで牽制をかけたりと無駄な抵抗を続けていたが、いざウインドウが開いてしまうと不安が現実味を帯びてまたナーバスになってくる。公式リリース以外の噂には一切心の惑わされることはなかったものの、その公式リリースが本当にあっけなく出されることに怯えながら、1日1日が過ぎていくのをじっと待った。高井和馬選手が山口に帰り、平塚悠知選手が福岡に個人昇格していった。もう終わってくれー、これ以上もう誰もいなくならないでくれー。正直覚悟もしていた。しかしそれではあまりに道半ばである。木下選手の水戸での物語はまだ序盤の山場を越えたくらいでしかないのだ。もっともっと見せてほしいものがたくさんあるのだ。

 

水戸は声出し応援の運営検証試合が早い段階からかなりの頻度で組まれていた。これはクラブ側の積極的な姿勢も大きく影響しているだろうと思われるものだった。そんな中サポーター有志の方々から、木下選手の個人チャントがいの一番に発表された。
原曲をあたると歌詞がなかなかちょっと怖くて、もっと他になかったのかと思ったりもしたが、いざスタジアムで歌声が重層的に響いていくのを聴くと、ゴール量産しそうな無双感がかっこよく、走るような低いトーンも外国リーグのチャントのようで、木下選手にぴったりだ、と手のひら返して喜んだ。キャプテンのポケセンチャントしかり、考える人はすごい。

 

8月7日、過去対戦で勝利はおろか1点たりとも奪うことのできていない、難敵秋田戦。
相手ホームの地の利も活かす徹底された戦略に、水戸はまた苦戦を強いられる。ボールを受けてからワンテンポでも遅れると途端に囲まれて奪われてしまう。まるで野武士だ。
しかし後半、木下選手の受けて一瞬で反転しノールックで左足を思い切り振り抜くシュートが決まる。あの吹っ飛ぶようなシュートフォームは木下選手の象徴的なかたちであるように思うから大好きだ。ベンチから飛び出してくる選手コーチのかたまりをぴょんと跳ねて受け止めると甘えたように顔を埋め、輪が解けてピッチに戻るときには1人噛み締めるように両手でガッツポーズをしてらした。なぜこんなにも嬉しそうなのだろう、そりゃゴールは嬉しいが。単に良い時間帯のゴールということなのだろうか、ゴールの形が完璧で気持ちいいものだったからだろうか。心の裡は分からないけれど、とにかくとても嬉しそうなのが印象的だった。ホーリーくんもおそらくお気に入りであるオフィシャルの写真も、初めて見るようなキラキラ輝いた表情で、ユニフォームのとろみのある布感もよく捉えられていてものすごく良い写真なのだ。今期10点目。個人的にはシーズン通して一番お気に入りのゴールでもある。アウェーで秋田相手に初得点と貴重な引き分けではあったが、勝てたらどんなに良かったか……と、とても口惜しい試合だった。

 

心休まらない移籍期間にはせめてもの希望となる新たな出会いもあった。横浜FCからレンタル加入した安永礼央選手は同ユース出身で木下選手の後輩であった。二人は面識は無いというが、ただ安永選手はクラブユース時代の要所要所で、木下選手について「すごい人がいたんだよ」と言い伝えられていたことを知った。

 

8月12日、夏の移籍市場が閉幕した。
オファーというものがどんな程度で出されるものなのかをよく分からないし、看板事件が響くのではなんて憶測されているのも想像の材料にはした。これが木下選手の本意であったかなど知る由もないが、とにかく今ここにあるものは本意であれ不本意を含むのであれ木下選手自らの意思が今シーズンを水戸で過ごすことを選択したという事実で、それが嬉しかった。
残りはもう12試合程度。正直短すぎるが、まだ水戸の木下選手が見られるんだ、もっともっと得点を重ねていただき、チームを勝利に導く活躍をして、ヒーローインタビューに選ばれたり、月間ベストゴールを受賞したり、秋にはお誕生日をお祝いしたり、グッズ宣伝ツイートに登場したり、PR大使企画もまだ何かあるかもしれないし、MVVが読めるかもしれないし、更新頻度激減中のアツマーレ日記に1フレーム見切れたり、そして最終節には木下選手のゴールでプレーオフ進出権を勝ち取るんだ、そうに違いない。

 

木下選手はよく自身の好調の要因を尋ねられると、往々にして「コンディションが良くなってきている」と言う。
最近は思い切り振り抜くシュートも撃てるようになってきていると。確かに、このごろのパフォーマンスには「軽やか」よりも「ダイナミック」という表現がしっくりくるような気がした。本人の努力に加え、メディカルに金と労を惜しまない自クラブの姿勢はその根もとに間違いなく効果を発揮していると思えた。
よく、木下選手をスタメン起用しないと流し試合なのかなんて言う人がいる。早い時間帯に交代されると「早すぎる、もっと使え」という声も多い。しかしおそらく秋葉監督は念には念くらいの慎重さで木下選手を扱っているのだろうと感じられた。本人の意向も強いのかもしれない。過去の怪我や、無理をおして身体を壊した経験が思っていたよりもずっと響いていることを実感するたびに、とにかく無理せず良いコンディションでい続けられることを第一に願っていた。
水戸の選手の平均年齢の低さに感覚が引っ張られているからか、わたしは常に彼のプレーヤー人生の最後について想いを巡らせていた。

 

8月20日、32節アウェー山口戦。
ベンチスタートで後半早い時間に途中出場。うまくいかない流れに喝を入れるべく、キャプテン新里選手と安永選手との3人同時投入。せかせかとキャプテンマークを付けながらピッチに指示を送るキャプテン、水戸での初出場にしかし覚悟が決まりきっている安永選手、淡々と準備をする木下選手、この3人の並びがかっこよくて、ここから巻き返せれば、と期待したが、やはり後ろと噛み合わないプレーが続き、かなりストレスを溜めているようだった。そんな中でも新里選手とは意思が合っていることがこの試合だけでなく多いように感じられたりするのだが、結局状況は打開できず、「何もない!」の試合だったわけで、だというのにファンとしてチームを心配する気持ちよりも自分自身の精神に監督の檄が響いてしまい、仕事をものすごく頑張れてしまう。

 

それから早3日、秋葉監督激怒インタビューの違法転載動画がバズりにバズっている火曜日に、延期開催となっていたホーム大分戦が行われた。
前半28分、左サイドでボールを受けた木下選手は、これまで安藤選手が再三の猪ムーブでカードを取らせていたことも響いたか屈強な外国人選手を薙ぎ倒して1人で突き進み、最後は繊細な技術で鮮やかにゴールを決める。ため息が出るほど圧巻のプレーだった。表には木下選手のことをリーダー呼びしてくれる大崎航詩選手の良いパスからのゴールだったことも嬉しい。
安藤選手のこれまた猪突猛進の追加点もあって、2-0の勝利。前線2人のコンビネーションが決まった試合だった。木下選手は80分過ぎの交代直前にはピッチに座り込んでしまうくらい、点を取ってなお走りきってくださった。試合終了の笛が鳴ると、選手やコーチ陣が飛び出ていって喜び合うのを、ひとりベンチから立ち上がることができずに静かに眺めていらした。
ついに念願のヒーローインタビューがあった。さっきまでものすごい威力で走り回っていたとは思えないゆったり穏やかな受け答えが木下選手らしくて素敵だ。インタビューを映し出すスタジアムのスクリーンを金久保順選手が指差しながら「やっぱバケモンだな!好きだわ〜俺ああいうストライカー」と嬉しそうに言って回っているのが良かった。
ヒーローインタビューはその後の1人小走りでスタンドに向かうなどの前後含めて演出されるヒーロー感が醍醐味だ。しかしこの日はみんな木下選手を待っていたので、一緒にバックスタンドに向かいながら、次にスクリーンに映された秋葉監督の涙の「This is 水戸ホーリーホック!」の炸裂に、一同「やったー!」と大喜びの大爆笑をされていた。
木下選手は全員の前に立ったり盛り上がりの中心にいるようなのがあまり似合わない気もするが、問答無用で呼ばれたトラメガ挨拶では足を庇ってよろけながら乗ったお立ち台の上で「前節不甲斐ない試合をして、みんなに悲しい思いをさせたと思うので、そのぶん今日やってやりました!」「ここから全勝して、J1昇格目指すので、みなさん応援よろしくお願いします!」なんてしっかり盛り上げてくださる言葉にも若干の浮遊感があって、この蒸した勝利の熱にひととき心を委ねているようだった。間違いなくヒーローだった。

 

ケーブルテレビ・ジェイウェイの『教えて!ホーリーホック』という、選手がサッカー少年たちの質問に答えるミニ番組に、木下選手の回があった。
木下選手はこういう時にしっかり語ってくださる方である。サッカー観や身体の使い方などのご自身による言語化なんてファンとしてテンション上がらないわけがないうえに、シンコペーションのかかるような話し方が心地よく、何度も何度も聞いた。
「リラックス。慌てないことです」、「キック力は筋力じゃない、インパクト」、「みんな結構淡々とやってるもんなんです試合って」、「鞭でしならせて弾くような……」などどの言葉もまず一番に納得感が強く、つまり目指されていることが素人の自分にも分かるくらい明確にプレーに表れているのがすごいと思った。
インプットを重視、とにかく映像を見るんだ、という強調の仕方はクリエイティブの人っぽくもあり、形から真似してみることでそれが内包する意味もまず身体が理解できるようになるとか、よく機能しているものは見た目にも美しい、という考え方をされていると感じられる意見は、わたし自身も同じように考え、サッカーや木下選手のこともそのように好きでもあるので、嬉しいことだった。

 

9月3日、アウェー仙台戦。
仙台側がなんだかごたごたしていたらしいのもあって、もはやウォーミングアップの時点で水戸の勝ちは見えていたようなものだった。のちの『勝利の裏側』でさらに深く伝わるのだが、大きな大きな仙台という相手に対して、それぞれの緊張を分かち合って互いにリラックスできるよう思いやり、前向きな言葉と笑顔でチームはひとつになっていた。スタジアムの壮大なBGM演出すらもはや水戸のためのものだ。入場時の木下選手の武者震いしているような表情がたまらない。
28分、ガラ空きの右サイドに抜け出していった杉浦文哉選手が、それをしっかり見ていた同期髙岸憲伸選手からの最高のパスを受けて右足一閃。木下選手が徹底的に対策される中、「僕もいるんだけどな〜っ」というような杉浦選手らしいさわやかで堂々としたゴールだった。木下選手が思わずガッツポーズをしていたのも印象的だった。髙岸選手ともう1人の新卒組の後藤田選手が真っ先に駆け寄ってきて喜んでいたその後で、木下選手も杉浦選手をハグしてとんとんと肩を2回叩いていた。果敢にゴールにチャレンジするものの決めきれずにいた杉浦選手に、最近よく言葉をかける姿があったのを思い出した。
後半にはセットプレーからの追加点があり、その後にPKで1点返されるも水戸は最後まで崩れることはなく、2-1で勝利した。水戸らしい、水戸の強さで、掴んだ勝利だった。話させて話させてと3人もトラメガ挨拶をしてくれ、みんなでラインダンスをして、キャプテンのハッピーバースデーを歌い、キャプテンのお腹の底からの「ありがとうございまあす!」がユアスタの夜空に響き渡った。サッカーでこんなにも優しい喜びに包まれた空間が作れるのかと感動した。

 

しかしここからチームは長く苦しい時間を過ごすことになる。

 

話は少し遡るが、ドイツからレオナルド・ブローダーセン選手が加入し、これは木下選手のドイツ語が復活するのでは……!と一瞬期待が高まる。ドイツ語をもうどれだけ覚えていらっしゃるかは分からないが、ほんの少しだけ知ることのできたホンブルクの木下選手はちょっとシャープで、ドイツ文学の薄暗い森の雰囲気を漂わせていて非常にかっこいいのだ。なかなか苦しいことの多い期間だったのではと思うのでそうしたシビアさも反映されてのことかもしれないが、思考は言語環境によって規定され、人のアイデンティティに影響するのは何よりも言語だ、という仮定から想像を巡らすのが楽しい。海外で活動される選手が必ずしも英語や現地の言葉を覚えるわけではない中で、木下選手にはドイツ語と英語を学ばれ用いられていたことで培われた価値観が反映されているはずであるし、18歳からの9年間という時間に、ドイツに加えスウェーデン、ベルギー、ノルウェーという地で、何を見、どんなふうに過ごされてきたのだろうということにも思いを馳せたりした。
レオ選手とのやりとりが何語なのかは結局分からないので置いておくとしても、やはりとても気にかけてよく一緒に話していらっしゃるようだった。きっとプロの道を外国人として歩んできた先輩らしく、慣れない環境に孤独や面倒をなるだけ感じさせないため力になりたいとお思いなのではないだろうか。

 

9月18日、アウェー新潟戦。岩手、長崎と痛い2連敗を喫した状況でも選手たちは弱気になることなくファイティングポーズを取り続けたが、首位を走るビッグクラブの圧倒的な力に打ちのめされ、ここにきて秋葉監督体制初の3連敗という結果に終わった。
新潟には、木下選手が昨季浦和でチームメイトであったトーマス・デン選手が所属していた。デン選手はこの時期オーストラリア代表に招集されることが決まっており、もういらっしゃらないのかと残念に思っていたが、新潟側が発表したメンバー表にはその名前があった。
前述の話の関連で、木下選手にとってデン選手は英語でコミュニケーションを取れることが大きかったろうが、それだけでなく、慣れない土地で、試合に出られず、ぼろぼろの身体と向き合うしかない、その孤独を共有する関係でもあったのだと思う。不甲斐なく行き別れ、しかし今それぞれの場所で欠かせない選手として躍動している2人が、ついにピッチ上で相まみえ、互いに譲らないマッチアップをできたときはとても嬉しそうだった。
試合後、木下選手がストーリーズにお写真を上げていた。言葉はなかったがクラブで共有された写真の中からデン選手が一緒に写り込んでいるものをなんとか探したのだろうかと想像してほっこりした。デン選手は翌日には飛行機に乗って日本を発たれていた。

 

その3日後、若い戦力で連敗脱出への望みをかけたホーム東京V戦は、木下選手にとっては出場停止の2試合を除いて初めてのメンバー外となった試合であった。
試合結果は1-2。これで4連敗。
プレーオフの可能性がほとんどゼロになってしまったことよりも、このチームのみなさんが、勝利がもたらす開放的で充実したムードの中で笑い合える時間がどんどん減っていってしまっていることが悲しかった。

 

9月25日、アウェー徳島戦。
前半セットプレーの際、ボールに向かって一斉に飛び出していく中で木下選手は相手選手複数人に引っ張られ自由が効かなくなったまま、飛んできたキーパーの胴に抱き込まれるように正面から激突し、後頭部を地面に強く打ちつけた。明らかにお星様が見えており、脳震盪かとハラハラする。4月の山口戦が蘇る。相手選手の方々はうずくまっている木下選手を足元に囲みながら、突っ込んできたのが悪いということを主審に捲し立てているし、実況解説のお二方も負傷に全然触れないので、気のやり場がない。木下選手はおもむろに身体を起こすと、悶着をよそに1人ピッチの脇へふらふらと歩いていかれた。一応プレーは続けられるようで、複数人を相手にし倒されてもなお失わずファウルを取らせたり、難しいボールをシュートまで持っていくなどのシーンもあったが、結局後半立ち上がって間もない不自然な時間にベンチへ下げられたため、負傷時やハーフタイムで交代しなくて良かったのだろうかといまだに少し不信感が募る。

 

10月2日、第39節ホーム千葉戦。中断期間以後の最多動員を目指して、クラブが長い期間をかけてさまざまに施策を立てていた注目の一戦だった。しかしここにも、木下選手の名前は無かった。
知人が一緒に試合を観戦していたので、正直木下選手がプレーしているのを観てオタクになっているところを目撃されずに済むのは不幸中の幸いではあったのだが、前節の交代以後この週はほとんど一切姿を見ることがなかったので、今何をされているのか、どんな状態であるのか、何も分からないまま不安を溜め込むばかりだった。唯一得られた情報は、人権啓発イベントに寄せて掲出された選手メッセージの中で木下選手の「No racism!!」の文字。手書きのマジックペンの軌跡を眺めながら、人権メッセージというテーマから木下選手がその文言を選んで書かれた事実に思いを巡らせた。負傷離脱中のキャプテンの「大事なのは支え合うこと。」と共に、姿なく残された言葉は余計に寂しく胸を打った。
この日サッカーを初めて観たという知人は、選手たちは必死に頑張っているのにどうにもならないまま試合終了の近づいていくのを「部活でバレーをやっていた時を思い出す」と切なそうにしていて、苦い観戦体験にさせてしまったなという申し訳なさと共に、勝負事の摂理を改めて感じながらこの敗戦を観届けた。
ほどなく、秋葉監督の今季限りでの退任が発表された。

 

前述したアウェー岩手戦でのキャプテン新里選手の負傷離脱と、そこからどうしても勝ちを掴めなくなってしまったチームの状況と、最終盤にきて辛くやるせないことばかりが続いていたが、そんな中ひとり東京V戦での初ゴールからようやく努力の萌芽を見せ始めた唐山翔自選手の明るい話題は、よく木下選手との関係性にフォーカスされていた。
唐山選手と一緒にいたり、彼の話をしたりするときの木下選手は、今まで表には見せてこなかったではありませんかというような、とても気を抜いた、お兄さんのような顔をなさっており、10ほど離れたこの選手のことを大層可愛がっているようだった。

 

唐山選手は、トレーニング映像などを見ていて個人的には『ピンポン』のペコのようだなとも思ったりしていて、だから瀬田さんのnoteでの、チャンスが来るとゴールできることが嬉しくて笑顔が出てしまうという唐山選手に対して木下選手が「チャンスの時こそいかに冷静に普段通りできるかが大事」とアドバイスする話にも、ウキウキのメンタルもそれはそれで唐山選手なりに力を引き出しそうでもあるけどなと思っていた。
しかし結局、ここで勝てなければ全てが終わってしまうというような41節アウェー栃木戦も終盤の2得点でチームを大逆転勝利に導いた唐山選手はラッキーボーイのニューヒーローになったわけだが(それは当然、唐山選手の腐らない努力の賜物だという前提がある)、まさに冷静さと集中力の求められるPKを決めたことなど、木下選手のアドバイスが結実したのかなと思わされた。

 

一方で、例えばその栃木戦だって、前半終了間際に木下選手が反撃開始の1点目を決めている。その際の捨て身の接触が試合後にまで響いているようだったのは心配だがともかく、木下選手のあのゴールも唐山選手の決勝ゴールも勝利を構成する要素としてその質量は全く同じ1点なのだ。わたしはそういうゴールが木下選手らしいなと思うし、そんな木下選手が好きだからそれでいいのだが、自身はチーム自体の不調も相まって停滞していながらも、助言もあって覚醒し劇的なゴールを連発する唐山選手の成長を心から喜んでいることに、次のエースはお前だぞとでもいうような構図が見えすぎて、ちょっとだけ切ない気持ちになるのだった。

 

最終節、第42節。ホーム群馬戦。
舞台は整っていた。勝たなければいけない理由が多すぎた。それを番記者の佐藤さんは試合当日のプレビュー記事のタイトルにて「すべては、みんなの『笑顔』のために」と表現なさっていた。そうだつまりは笑顔のためなんだ、と思った。今日勝ち取るべきものはみんなの笑顔なんだと。
激しい展開に何度も荒れそうになる場面を、怪我からの驚くべき回復力でぎりぎり間に合いスタメン出場していたキャプテン新里選手がよくコントロールしてくれていた。彼の話をどうしてもしたい。新里選手は、物腰も身体的にもふにゃんと柔らかい感じの選手で、そんな人が今年キャプテンに任命され、ピッチ外の広報的な活動はクラブの雰囲気とよく合って抜群にこなしてくれていたものの、成人男性サッカー選手30数人の集団をまとめ上げるのは尋常な仕事ではなかったと思う。実際シーズン序盤はその重責感に潰され、新里選手らしいあっけらかんとしてクリエイティビティ溢れるプレーが影を潜めていたし、終盤には過激な接触を受けて負傷、チームにとってもご自身にとっても大切な試合を前にして戦線離脱を余儀なくされた。キャプテンを欠いたチームは「運命」を取りこぼし、その苦境に交わることすらできない彼から発信されるいくつもの抑えた言葉は受け取り難いほどに悲痛なもので、こんなにクラブに力を尽くしてくれているのに、あの時のひとりピッチにうずくまる華奢な背中と、痛みと悔しさに歪ませた表情が最後の姿になってしまうのだったら、あまりにやりきれないと思っていた。そんな新里選手が今、(なぜか1stユニフォーム用のイエローではなく蛍光ピンクの)キャプテンマークを巻いてピッチの中に立っているのだ。気持ちが入りすぎて激しかける若い選手たちをなだめる笑顔とレフェリーへの毅然とした主張とを巧みに使い分けてチームをまとめる姿は堂々としていて、なんて頼もしいのだろうと思わされた。やはりこの人がキャプテンでよかった、帰ってきてくれてよかった。
もう1人、地道にリハビリをしこの日に間に合わせてきた選手がいた。今日で自分のプロサッカー選手としての人生を終える金久保選手は、そんなことを忘れてしまうくらいの運動量でピッチじゅうを走り回り、ボールを持つと自在に動き、時間を作り、的確にパスを出し、鮮やかに選手を繋いでいた。選手たちはその大切なボールを、何度もシュートまで持っていった。彼らは仲間を信じて、仲間と積み上げた41試合の経験を信じて戦っていた。
そして前半終了間際、黒石貴哉選手の果敢なボックスへの侵入により水戸はPKを獲得する。
痛いほどに貴重な先制点のチャンス。チームは木下選手にキッカーを託した。ゴール裏の低いカメラが捉える生々しい姿。素晴らしい映像だ。メガロドンが無くたってこれが撮れる。心臓の鼓動と息遣いすら聞こえてくる。極度のプレッシャーと深い集中の間をせめぎ合うような表情。ホイッスルが鳴り、ゴールの右隅へ一直線に蹴られたボールは、相手キーパーの手の中にがっしりと捕まって止まった。
時の空白に嵌ったような一瞬の思考停止の後、あまりにも手厳しい目の前の現実に、声にならない声で呻くことしかできなかった。同時になぜだか清々しくもあった。もう見たものと錯覚するほどに彼らの勝利という結末だけを信じきっていたので、そこにたどり着くまでの道を作る権利を木下選手が所有していること自体が、わたしにはとても充足感のあることだったのだ。
このチームとしての最後の90分が終わった時、彼らと、彼らとともに走り切ったすべての人たちの上に広がっていたものが何だったのかは、知っての通りである。

 

第42節 | 水戸ホーリーホック公式サイト

 

 

 

 

10月23日という異例の早さで、リーグは22シーズンの全日程を終えた。
木下選手に関して言えば、チーム最多出場となる38試合の出場、チーム総得点の約25%を占める12ゴールなどの数値的功績と、素晴らしいプレーの数々と、何より水戸ホーリーホックの選手として活動する日々の全てで、今季の水戸に貢献してくださった。この時間があった事実は、クラブの歴史からも、それを見届けた全ての人の人生からも、ずっと消えることはない。
木下選手にとってはどんな時間であったろうかと考える。少なくとも10年前ブンデスリーガへ飛び込んだ18歳の青年が思い描いていた人生設計には1ミリたりとも存在していなかったであろう、J2の辺境に漂うこのクラブに来、必ずしも順風満帆にだけでなく過ごした日々は、サッカー選手らしい謙虚でポジティブな思考転換を幾分か意識的にしなければいけないものだっただろうか(わたしは水戸をからかわれ続けて卑屈になりすぎているかもしれない……)。クラブにとってありがたい存在であってくれたことは前述のように自明であり、そうであればあるほど、それだけではのほほん感謝をするのは難しい。木下選手ご自身にとって、このクラブで過ごした時間ができるだけ大切なものであってほしかった。それを確認して心からの感謝をしたかった。なぜなら、わたしは水戸ホーリーホック木下康介選手が大好きで、それを眺めていた半年間が本当に幸せだったからだ。
 
そしてこの半年間、まあ、半年弱をかけて、わたしは木下選手のみならず今年の水戸の選手全員について少しでも知ろうとし、その結果全員のことがとても好きになって、キャプテンを中心にこのメンバーで構成されるチーム自体と、そのチームが体現してきた秋葉監督の愛と情熱の(あと代表や世界基準の視点を持った)フットボールに数えきれないほどの感情を受け取ったので、それがもう過ぎ去ってしまって二度と見られないことには言い知れないほどの寂しさがある。今まで水戸ホーリーホックをこんなに自発的にしっかりと見てきたことは無かったのだ。こんなにも1人の選手に没頭し、こんなに多くの選手に愛着を感じたのは初めてだった。

 

毎年覚えていようと思いながら忘れるオフシーズンの乗り越え方をまた一から模索しなければいけない。さて来季についてのリリースによって全てがおじゃんになってしまいそうなチキンレース感にはらはらしつつ木下選手に関する蛇足をもう少しぶら下げる。

 

横浜FC下部組織時代のことをできる限り追ううち、まだ線が細く、しかし既に飛び抜けて背は高く、寡黙で精悍な佇まいでゴールを量産していた木下選手が当時、その周囲にいた人たちにとってどれだけ大きな存在で、どれだけ愛され期待されていたかを窺い知った。
”木下さん”にはトップチームに上がってもらいたい、横浜FCを背負う選手として大成してほしい、しかし大人たちの思惑の渦の目の中から海を渡る向きの力を受領し進んでいく彼の背中を尊重し、海外ルートはうまくいかなかった前例も多いと不安になりながらも、限りなく少ない情報から、ゴールしたとか、怪我をしたとか、4部リーグに行ったとか、そのたびに一喜一憂し、大丈夫かな、帰ってきてもいいんだよ、いいやまだ帰ってくるんじゃないぞ、とそれぞれに激励の念を送ること9年、ついに日本へと思ったら何と浦和に加入、そこで出場機会を得られないのを見て戻ってきたらいいのにと言っているのに今度は水戸に移籍するのをそうなんだ応援するよとただ見守り、三ツ沢凱旋ゴールをし水戸で要として輝く成長した姿を心から喜んでいた横浜FCサポーターの方々。
わたしはそんなフリエサポさんたちのことを思うと、勝手な想像だが木下選手が今後のキャリアのどこか、いやその長い旅の終わりの場所に横浜FCというクラブを選ぶ姿も脳裏にありありと浮かんでき、本当にそうなったとしたら素直に応援したいなあと感じるのだった。ちなみに木下選手は我がチームのホーリーくんよりもフリ丸のほうが好きだそうです。

 

それに限らず今後のことをつい想像するが、まあ現実は本当に分からないわけで。今までも国やリーグを超えて各地を飄々と渡り歩いてきた選手だ。日本国内のみで考えるのは浅薄かもしれない。髭を伸ばし始めたのを見て「まさか……次は中東かっ!」など思うくらいには何も材料がない。いや、他のJクラブなんかに行かれるよりはもはや中東の方がありがたい。
サッカーを続けられるのを前提に考えること自体失礼なのかもしれないとすら思う。もちろん来季も水戸で活躍される姿を1ミリたりとも諦めていない。でも本当に分からない。全く分からないから、きっと何も考えず、何も期待せずにいるのがいいのだろう。その区切りをつけるためにこの記事を書きはじめたような気がする。
どんな道を選択されるとしても、木下選手のプレーヤー人生が後悔のないものでありますように。

 

 

あとがき
書きたいことは止まらず、このだらだらとした文章になんとかオチをつけるとしたら、わたしは木下選手の本物の姿をこの目で一度たりとも見たことがないということだろうか。そもそも2017年を最後に一切スタジアムでのサッカー観戦をしていないのだった。この半年間、これだけわくわくしたり胃を痛めたり、喜んだり涙を流したり、創作意欲の根源にしたり仕事を頑張れたり、木下選手が節制なさっているからわたしもお菓子食べるのやめよっ♪など思ったりと、自分の生活に深く入り込んで感情を掻き回してきた存在は、わたしにとっては全部、画面の中の一方向的なコンテンツだった。
メディアを通して目に入る姿はどれだけ高精細であってもただその形を模した虚像に過ぎず、豆粒であっても実体を目の前にすることは得られる情報量が全く違う、一度は肉眼で拝みたい、とも思っていたけれど、本物に触れることへこだわる気持ちはいつの間にか、それを阻む色々な障害を乗り越えようとするだけのパワーを失っていた。感受性が腐ってしまったのだと思う。
感受性がないから、オチとかも付けられなかった。こんなところまで読んでくださった方、面白くなくてすみません。ありがとうございました。

 


参考リンク(ざっくりです)

【Jリーグ公式】木下 康介:水戸ホーリーホック 

プロサッカークラブとして。|Gengo Seta|note

ゴールの裏側。|Gengo Seta

唐山翔自の笑顔|Gengo Seta

「教えて!ホーリーホック!」木下康介 - YouTube

Glass Animals - Dreamland - YouTube

木下選手集 - tsujiのイラスト - pixiv

↓移動しました。添付画像ほか

zurqa.hateblo.jp

 

 

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特に5月より後、心がたいへん荒んでいた時期に、サッカーのサの字も知らない同居人を捕まえて夜な夜な悲鳴のように木下選手の良さを語っては「そうなんだ。まあお菓子でも食べよう」と適当にあしらっていただきお茶を淹れてもらうということを繰り返していた。リビングで試合を観ていると「どっちが応援してるチームだっけ?」と毎回(毎回!)聞いてくるその無関心さに、結構救われていたのです。彼女には感謝してもしきれません。

 

また、サッカーを憎みながらも自分なりの方法で少しでも理解しようとしてくれた知人。あなたとの間でないと絶対に成立し得ないあまりにも無茶苦茶すぎる木下選手話は、うざかったが気分転換にもなっていたのだよ。ケンホロウで手打ちにしよう。

番組『能登の海、風だより』備忘録と感想

 
1993年5月31日放送、石川テレビ放送制作のドキュメンタリー番組『能登の海、風だより』の備忘録と感想。

 

『天狗の住む山』、『奥能登 女たちの海』の赤井朱美さんが制作された作品ということで知った。それまでに珠洲原発関連で別の局制作の番組をいくつか視聴していたのだが、いずれも開発と住民闘争の典型である「給付金を受け取って土地を明け渡す人たち(組合)」と「要求を受け入れず運動を起こす人たち」 との対立や分裂を強調する、ないしそうしたことへの嫌悪感を助長する描き方をされていた点で、報道の責任を放棄した非常に粗末な作品だったことにもやもやとしていた。

問題を批判的に描こうという意図は感じるものの、対立による盛り上がりに反射的にカメラを向けるばかりだったために、怒れる無名の地元住民たちの表情を執拗に捉えることとなっていたのだと思う。
トーンポリシングという言葉も流行ったが、感情をあらわにすること特に怒りへの冷笑や、生活を政治の文脈で語ることをイデオロギッシュな行為と感じてしまう感覚が蔓延している。
それに、地方過疎地域に対する閉塞的で陰湿な田舎の村社会という印象も加わるために、権力による地域の混乱を外部の人間に向けて取り扱うときに、住民の側に感情移入して問題を受け止めてもらえるような描き方をするのは難しいのだろうなと思った。

 

しかし前段のようなことを、本作は巧みに回避していた。それは赤井さんの、能登の自然や人々への愛の詰まった取材と練られた番組構成によるものだったと考える。

ご高齢でありながら二人三脚で漁をされている高森さん夫婦。
快活でお世話焼きな行商の定谷(じょうや)のおばちゃん。
珠洲市唯一の助産院を営む助産師の中田さん。
この3組の人たちが能登の厳しい冬を黙々と耐え、春の実りに喜び、盛夏はのんびり人と語らい生きる姿を本編の大部分を割いてたっぷりと映し、そこに後半から少しづつ誘致の話題を挟んでいくことで、珠洲の環境やそこに住む方々の人となりを知った状態で、それが侵されていく流れを見ることになるのだ。

 

また序盤でも、当時取材中に能登半島沖を震源とした地震による災害があったようで、定谷のおばちゃんが「戸が開かなくなって困ったね」なんて言ってるシーンを入れているのなど実に暗示的であった。北陸に地震のイメージは薄かったが、このタイミングで震災に見舞われたこともただの偶然ではないなと思わされる。
原発問題がテーマにあると知って観ていると、高森さん夫婦がカマスなんかを干しながら「自然の太陽と風に干すの」と教えてくれたり、「海に行けばなんでもあるんや」と話されていたりするのを入れ込むのもうまかった。

 

原発の影は約1時間の本編中20分を過ぎたあたりにようやく入ってくる。まず唐突に漁業組合の建物の入口に建設計画事務局の看板が掛かっている画が差し込まれ、住民それぞれの家の扉に「推進派おことわり」などの札が掲げられて地区が二分していく様子を伝えている。
他方では海のお祭りの日を迎えた朝に散歩する住民たちが「いい祭りになったね」と和やかに笑い合うシーンがあったりして、みんなが顔見知りで助け合いながら暮らしているこのコミュニティを行政と電力会社が乱していくことに憤りを感じたし、それを田舎の村社会の怖さだと言ってしまうことは絶対に間違っていると思った。

 

30分を過ぎたところでついに主軸となる3組の画角にも変化がある。
珠洲市では、推進派と反対派の候補の一騎討ちとなり建設計画の進退に大きく関わってくる市長選挙が始まっていた。浜辺で仕事をする高森さん夫婦の後ろに選挙カーが通り、スピーカーから投票を呼びかける大きな声が響き渡る。望遠レンズで迫力のある画角。
 
青空の下、横断幕を持って阻止行動をするのはやはり大半が女性たちなのだが、そこでは定谷のおばちゃんも先頭切って声をあげておられた。今までのシーンで、おばちゃんは行商のお得意先の人たちやその家の子供たちにいつも明るく声をかけ世話を焼いていて、みんなに愛され地域を愛しながら生きていることが伝わってきていたから、デモ行進しているのも地域を思うあのお節介の延長にあるものとしてとても自然な姿として映った。怒りの声を上げる人は強い政治思想を持ったアクティビストなわけではない。みな子供たちから安全や豊かな環境を奪ってはならないという一心から、圧倒的な力で進んでいく建設計画をなんとか止めようと自分自身の身体でもって抵抗している。
 
「安全なもんならこんなとこに作らんでもなあ」、高森さんから朴訥とつぶやかれたその言葉には、小出裕章さんが原子力研究を突き詰めた末に女川原発の建設計画に対して抱いた疑問と同じ響きがあった。アカデミーの場で体系化された論理を学び専門用語を駆使せずとも、地球の土地を借り、自然に逆らわずに生きてきた感性が明確な答えを持つのだなと羨ましくもなった。弱った身体を支え合いながら慎ましくわかめを獲っているお二人を見ていると正直、電力会社のほとんど脅迫のような説得工作に負けてしまうのではないかとハラハラしてしまっていたのだが、高森さんは早い段階から、自らの土地を他の住民との共同所有にするなどし淡々と借り入れに対抗していた。
 
助産師の中田さんは、助産に携わった何人ものお母さんたちをその後も長く気にかけサポートしておられた。夫を亡くしたばかりの1人の自宅では進んでいく誘致の行方に不安の声を漏らしながらも、今まで通りお母さんたちの家を分け隔てなく回っては、子供の様子を聞いたり子育てのアドバイスをしたりなど自らにできることを取り組んでいた。

さっきまで穏やかに勤勉に生活していた人たちが三者三様にみな戦っている姿は、かっこいいなとも思いながら、なぜ彼らがこんなことをしなければならないんだという憤りと虚しさを感じた。

 

利権者側の土地確保のための本当に回りくどい策(それは大阪や京都の方にまで話が及ぶ)を調査するターンでは赤井さんのジャーナリスティックな面が見られた。望遠で撮らせておいて推進派の関係者宅に単身乗り込み聞き込みをするシーンなど緊迫感がある。また、電力会社の説得工作などは周囲に気づかれないようにと夜間に行われることが多く、そういったシーンの画面の真っ暗さが太陽と共にある人々の暮らしと真反対で、不自然さが強調されていた。

 

一方で、赤井さんの被写体への愛のある視線が強く伝わってきたシーンもある。中田さんの助産院に陣痛で飛び込んできた1人の妊婦さんの出産シーンだ。
妊娠出産に対して言われる「生命の神秘」だとか「母親は偉大」などの言葉は、女というものを妊孕性でのみ尊ぶ意識を温存するものだろう。また、そうした言い訳をしながら出産や授乳等のデリケートな場面をわざわざ映して結局好奇の目で消費されてしまうようなことにも不快感しかないのだが、本作でじっくりと描写される映像は、赤井さんの妊婦さんへの共感をすら伴ったような心の寄せ方と、中田さんの仕事へのリスペクトが伝わる、素晴らしいものだった。
中田さんは自然分娩にこだわっており、開業時からずっと、薬剤や近代的な器具を一切使わずに素手と砂時計のような形の古い聴診器のみで出産を完結させてきた。
日本海の風が吹きすさぶ冬の深夜に、冷たい手で妊婦さんに当たるとびっくりさせるからと聴診器を持った自分の両手ごとストーブにかざして温めている様子から始まる。
妊婦さんの苦しそうな呼吸と、百戦錬磨の中田さんの落ち着いた語りかけ、研修に来ているという若い看護師さんの、中田さんの神の手を目に焼き付けつつも冷静にサポートにあたる声だけの空間が広がる。真に迫るナレーション。命に関わる緊張感と愛しさ、この助産院にずっと続いてきた営みに心を震わす赤井さんの気持ちが伝わってくるようだった(途中からこそこそ入室してきて妻を励ますでもなくボケッと突っ立っている夫らしき男の姿も収めていらした)。

 

インタビュー中だというのにスタッフさんの分のお茶を入れてどうぞと出してくださる定谷のおばちゃんの映像をそのまま使っているのや、高森さんの所有する山の木々を見るなり「ちゃんと枝打ちしてあるね」と声をかけるなど、赤井さんが長い期間の取材で現地に積極的に溶け込んでいき、一人ひとりと取材対象以上の関係になろうという姿勢で関わっていたことを感じたし、そうしたほのぼのとしたやりとりを、失われてゆくものという表現ではなく番組中終始続けることで、脅かされはしても崩壊したわけではない現地のたくましい暮らしぶりがこれからもずっと続いてくことをイメージした。実際、この後本当に長い時間がかかりはしたが珠洲原発の建設計画は凍結することになる。

 

この番組が、当時放送されるにあたって原発問題を扱う番組だというアプローチはどの程度されていたのか、視聴者がどのように受け止めたのかはとても気になった。タイトルだけで考えると、若干の不意打ち的な狙いもあったのだろうか。いずれにせよ、まさに闘争中の問題をこうしたトーンで扱う番組はあまり観たことがなかったので驚きがあったし、工夫が凝らされ思いのこもった良作だった。

 

 

番組以外の主な参考

珠洲原子力発電所 - Wikipedia

能登半島沖地震 - Wikipedia

原発建設問題で揺れた石川・珠洲市。それでも生きる姿勢は変わらない 第2回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品|FNNプライムオンライン(←番組の要約)

 

 

 

番組『鉛の霧』備忘録と感想

 

1974年6月29日放送、RKB毎日放送制作のドキュメンタリー番組『鉛の霧』の備忘録と感想。

 

佐賀県多久市。かつて唐津炭田の炭鉱町として栄えたこのまちに、多久冶金工業という会社があった。

多久冶金は小さな工場を持ち、自動車バッテリーなどから鉛を取り出し精錬して再利用に繋げる仕事をしていた。

深刻な公害問題が相次いだ高度経済成長期のただなか、工場設置には地元住民からの反対署名が押し寄せた。敷地外に粉塵を出さないようにする努力は、工内の作業員を犠牲にする。鉛を融解する過程で炉から出る有毒な水蒸気は防塵マスクでは全く防ぎ切れるものではなく、効果の期待される防毒マスクを着けていてはとても仕事にならない。十数名の工員全員が鉛中毒に侵された。

多久冶金の社長・北島義弘さんは、戦中はニューギニアに出兵しブナの苛烈な戦いから生還した頑健な元兵士であり、戦後、多久冶金の前には炭鉱を経営していた。自ら工内で汗を流し工員たちと同じ空気を吸うことで、良い社長としての信頼を得るとともに、彼も深く鉛中毒に蝕まれる。

 

鉛毒の背景には会社の資金不足があった。

精錬した鉛は、なぜか商社を仲介しないと再利用先には渡せなかった。その際に過大なマージンを抜かれ、働いても働いても儲けられない仕組みだったのだ。多久冶金には労基に推奨される公害防止装置が設置できるだけの莫大な資金を捻出する余裕はなかった。金が無いからまともな安全管理ができていないのだ。

多久市立山の中腹にある作業場で、回収した廃品を割って鉛の部分を取り出す仕事をしているおじいさんは、「鉛は今の産業に重要な資源なのに、その供給過程で起きることに対して国が何もしない。北島さんはいい人だが、国策の貧困である」というようなことを言う。金が無いことで健康を脅かされるのは国の怠慢だ。ちなみに社長の北島さんには労災補償も降りない。

若い工員は結婚を機に、将来の子供の健康被害を危惧して辞めていった。多久冶金に残る工員は、北島さんと同じくかつて炭鉱にいた中年男性ばかり。彼らは他に働き口が無いこともあり、ここは地獄だが炭鉱よりはずっと楽だ、と言って仕事をしてきたが、若い工員の辞めていくたび動揺を募らせるようになる。

 

しかし番組は公害問題の提起が主題かというとそうでもない。ここまでの展開が若干急ぎ足だなと感じていると、突然ブラウン管の画面直撮り映像になり、無音のままテロップが出される。

『テレビ・ルポルタージュ 鉛の霧』は、1972年の暮れに一度全国に放映された番組だったそうだ。

この放映直後に多久冶金は、鉛の精錬を公害として宣伝した、また、流通のからくりの一切を喋ったということで取引のある商社から猛抗議を受け、取引が全て打ち切られたのだ。そして会社はあえなく倒産となった。

白い空と工場の鉄塔を見上げる画面のまま、北島さんと木村さんの語りが流れる。

「わやですな」「迷惑かけたですね、本当に」「いえ、不徳の致すところですわ」

 

春、工場の取り壊しに、最後の奉公だと元工員が2人戻ってき、北島さんと3人で、手作りの炉をまたひとつひとつ手で解体していく。このとき、北島さんはこれまではカメラに見せなかった不機嫌そうな表情をなさっていた。

それから敷地と思しき林で取材スタッフにタケノコを採らせたりしていた。鎌を持ってヨタつきひっくり返るスタッフと笑い合う一同。番組によって苦境に立たされた明確な報道被害者であるにもかかわらず、北島さんは木村さんら取材班に愚痴をこぼすことはなかった。演出的な、ちょっともの悲しいエンディングのような雰囲気。

 

展開はまた一転、場面は火事場のごとく慌ただしいRKB報道制作局に切り替わる。

そしてそこには、サングラスのテレビマン相手に何か大きな図面を広げ熱心に説明する、スーツを着込んだ北島さんの姿があった。

その図面は鉛の反射炉の設計図だといい、これを大阪のある商社が注目していると聞いたから資金の引き出しに力を貸してほしい、と言うのだ。

後ろのデスクに当時放送した『鉛の霧』のテープを積んで同じ画角に収めるのも殊勝だ。自陣では何でもできる。専門家の元へ一緒に行き、「大企業のよりすごいよ」とお墨付きをもらうと(これをどう使うのかよく分からなかった)、大阪のその会社まで帯同する。

しかもナレーションが「木村ディレクターの弟がその会社に勤めている」とさらっと言い、あまり言及はされなかったが後に出てくる弟さんの口ぶりからするとおそらくそうした関係性も利用しての交渉だったのだろうか、木村さんら取材班は、どんどん取材対象の出来事、人生に干渉していく。それは、報道被害を出した罪滅ぼしや責任の貫徹を越えた、木村さんの北島さんへの没頭ぶりだったように感じる。

 

しかし数ヶ月後、返ってきた結果は無情だった。

商社の広報課長が木村さんの取材に対し言った「彼には長年の経験と技術力、企画力しか残っていなかった」という言葉がすごい感覚だなと思った。要は資本がないとどうにもならないということで、経営の世界の厳しさを垣間見た気分だった。''Wisdom is better than riches''、知恵は万代の宝という価値観ばかり触れていた自分には真逆の言葉だった。

北島さんの再挑戦は無に帰した。取材班も無力を思い知ったそうだ。

 

「ジャーナリストなんて大っ嫌いなんですよね、あんまり利己主義で。あなた(北島さん)はドラマスターにでもなるおつもりですか。小説の材料のようにはされたくない」というようなことを、北島さんの妻が木村さんを前にしてあんまり憤りをあらわにおっしゃる。(お若そうでワンピースにしっかりお化粧をし正座をして夫に対して敬語を使う)この妻のシーンは「男のロマンに口を挟む分かっていない女」のような表現でもありながら、画角に入り込む木村さんはただその言葉を受け止めて、自らの仕事がジャーナリズムであるという認識に考え入っているように感じた。

 

さて多久冶金の元工員の方々が長崎の池島炭鉱に入ったりし、各々新たな生き方を求めて散っていく中、北島さんが単身タイにいるという噂が入ってき、木村さんら取材班ももはや問答無用海を渡った。タイ鉄道に揺られバンコクから600km北上したバンピンの鉱山にたどり着くと、現地の方は彼は仕事中の事故で入院しているといい、その病院に行くとようやくそこで北島さんと再会する。足の患部から湧く血を看護師に拭かせながら、木村さんを見、こんなところまでと愉快そうに笑う北島さんはあまりに逞しく、悲壮感などみじんも抱かない。

北島さんは多久冶金を興す前に1年間だけ公害対策長として勤めていたアンチモニー工場の会社社長の勧めで、その会社のタイの工場建設の担当者として現地の方々を指導監督していた。アンチモニーは鉛と同じく、資源が枯渇していて各国になかなかの高値での取引が見込まれていた鉱物だそうだ。鉱山には子供の労働者も多くいてみんな重たそうな石を運んでいて、また、女性たちは楽しそうにおしゃべりをしながら石を割ったりしていた。

そしてそんな高山に北島さんが退院し戻ってくると、まるで凱旋将軍かのように熱烈に迎えられており、彼は工場が完成した後も採掘の監督として現地に残るのだと言う。その後のことは分からない。いま日本でネットを検索してもほとんど全く記録に残っていない北島義弘さんは、東南アジア・タイの田舎に像でも建って、あることないこと言い伝えられているんじゃないかとすら想像して、なんか笑ってしまう。

 

北島さんの妻は「ドラマスターにでもなるおつもりですか」とおっしゃっていたけれど、確かに彼には往年の名男性俳優の感があった。北野武さんの作品世界のようなちょっとバイオレンスな雰囲気もあり……、というよりは北島さんのような男を男の映画監督は好きでよく描いていたというべきなのだろうか。身体がでかくて不器用で、義に厚くて陰のある、いわゆる「いい男」であった。

木村さんもそんな北島さんの人柄と熱意に惚れたからこそ、一度番組を作って放映し終えた後も、取材を再開し取材を超えたところにまで踏みこんだのだろうと思うし、ああした判断ができたのは、炭鉱失職者救済の取り組みで行政まで動かした「黒い羽根運動」より後、RKB毎日放送の中に培われ続けていた、番組作りに手段を限らずに取材対象や社会へ働きかけていく姿勢があったからだとも思う。

また、雑な言い方をするとおそらくニュース報道の延長というよりはどちらかというと創作的な趣向の強い映像としてドキュメンタリーを作る人だったのであろう木村さんにとっては、今回報道被害を生んだことが、取材時の自分たちは被取材者の人生の登場人物にもなってしまうという視点を少なからず強めもしたのではないか。本作は木村さんの中では初期の頃の作品だが、その後の彼の番組を拝見すると(というより本作の追加取材の部分から)、インタビューをする自分の姿を意図的に画角に入れ込む演出が何度も見られる。

 

冒頭の鉛毒患者の所感を述べる医師の声が読経のようにゆらめく見せ方や、ラストインタビューのフラッシュバック演出等よりも、報道の功罪に向き合う追加取材の点で印象に残った作品。キャンペーン報道や、日々の報道を中間総括するような番組や、この番組のような報じた後のリアクションを受け止めた再取材を取り込むなどの形式の番組は、製作者側がより主体的に入れ込んで作られるために面白くなるのだなと思った。

 

 

 

番組以外の主な参考(大して参考にはしていないが面白くて読んだもの)

資源開発環境調査 タイ王国 Prathet Thai (Kingdom of Thailand)

失敗知識データベース

ニューギニア戦ブナで日本軍が玉砕 | 戦車のブログ

鉛中毒 - 22. 外傷と中毒 - MSDマニュアル プロフェッショナル版

 

番組『棄民哀史』備忘録と感想

 

2015年5月27日放送、SBC信越放送制作のドキュメンタリー番組『SBCスペシャル 棄民哀史』の備忘録と感想。
 
本作は2組の元開拓団の方々の証言と、長野県内にある満蒙開拓平和記念館の職員が2014年に行なった中国黒龍省への視察の映像を中心に、国策に翻弄され続ける人々の苦難の実像を伝えている。

現在の中国東北部満州へ渡った「満蒙開拓団」。入植者の数はおよそ27万人、中でも全国で最も多く人を輩出したのが長野県。
世界恐慌の1930年代、県内自治体は財政難にあえいでいた。日本でも農作物の価格低下が起こり、特に長野の特産であった繭の価格が暴落したことで、県内多くを占める養蚕農家は大打撃を受けた。
生産量を増やすのは容易ではないが、作付けあたりの人口が少なくなればいい、つまり人減らしをしたい。国の移民政策はそこに付け入った。加えて当然個人にも自治体にも大きな交付金が発生する。さらに大日向(おおひなた)村では、本や舞台など巧みな広報戦術もなされていた。
「困難を上回る大きな可能性がある」
先の見えない貧困の中にいた村民は、そんな謳い文句に希望を抱く。住民どうしは分裂し、それは入植へ向かう後押しにもなっただろう。
満州へ渡るか、止まるか。どちらにせよ家単位の判断に女と子供の意思は反映されなかった。証言者の1人、岩間政金(まさかね)さんも当時幼少にして、移民に積極的であった父親に付いて行かざるを得なかった。

 開拓の実情は、国が安く買い叩いて手に入れた土地を割り当てられただけであった。土地を奪われた現地の人々はさらに山奥の未開墾の土地へ逃れざるを得なくなる。もしくは、土地を奪っておいて杜撰な開拓計画のために人手が足らず、結局もとそこを所有していた人々を小作人として使う例もあったらしい。内地では困窮していた人間がここでは途端に地主となり、現地人は自分たちの言葉を学び話している。五族共和を掲げつつ、開拓団は指導的役割だとされ、日本人の優越性を刷り込まれた。
 
1945年8月9日、ソ連侵攻。岩間さんら開拓団の成人男性は根こそぎ最前線へ招集された。農業移民は戦闘に参加する事はない、そう聞いていたのに。満蒙開拓の実態は、中国の植民地支配とソ連国境防衛の捨て石だった。日本は敗戦を迎える。
敗残兵の過酷。岩間さんらは捕虜を逃れるため山谷をさまよった。ソ連兵の銃弾に倒れる者、飢えで亡くなる者、自決をする者。岩間さんはただ逃げ続け、ようやく長春のまちにたどり着いたのは本隊を離れてから半年後のことだった。
 
戦中は関東軍の残虐な暴挙に耐えるしかなかった現地中国の人々、武装解除によって解放されたその憎悪の矛先となったのは、取り残された開拓団の多くの女性や子供、老人であった。大日向村の分村移民団の一員であった坂本レエ子さん、その夫の幸平さんらは過酷な逃避行の末、難民収容所に入る。しかし中国の厳しい冬の寒さに、周囲は次々と命を落としていく。収容人名簿の名前の上に赤線を引き、横に日付が書かれる。それがその人物の死亡と、存在したことの証明だった。
坂本さんもそこで母親を亡くした。遺体を外に出しておくと、現地の人間が「ごみのように馬車に乗せて」いき、裸にされひとところに積まれた。
自らもう何も所有せず極限状態にある中でも、遺体が服を剥がれ寒風に曝されることは尊厳の蹂躙であった。インタビューを受ける坂本さんは涙で言葉を詰まらせながらも、それを現地の人間たちへの憎しみに繋げぬよう、むしろ無自覚であっても侵略に加担してしまったことへ罪悪感として語り、日本に戻ることなく亡くなっていった開拓団の人々を悼んでおられた。
 
ふるさとに帰ってくると、「開拓民」から「引き揚げ者」となった彼らに居場所は残っておらず、寺や公民館に身を寄せる。誰かの物が無くなったりすると「あの人たちじゃないか」と言われた。
国は戦後緊急開拓事業だとして、食糧難を乗り切るために、今度は国内で農地開拓を募る。ここでもやはり、居場所を求める引き揚げ者は参加するよりほかなかった。坂本さんら大日向出身の引き揚げ者のうち165人(168人とも)が、大日向から20kmほど離れた軽井沢へ再入植した。軽井沢は浅間山のふもと、火山灰の土地。手で林をひらき、強酸性の土を懸命に耕した。
しかし50年代には安保のもとで米軍の演習基地化が計画される。この計画には坂本さんら入植者の方々だけでなく、県内全体で反対闘争の大きなうねりがあった。
反対行進の映像には女性が目立つ。「女性を苦しめる演習地反対」の横断幕は、米兵による住民女性への加害を危惧する心情が見てとれる。結局計画は取りやめになった。しかし高度経済成長の80年台になると、今度はゴルフ場建設の予定が舞い込んでくる。
共に海を渡り、演習地計画には一致団結して反対した開拓村の仲間が、このとき2つに分裂した。作物を育てるのには決して向いていない土地、補償を受け取って明け渡した方がいいのではないかという意見を持つ人も当然いたのだ。
坂本さんの土地は奪われることはなかったが、現在の軽井沢の高級避暑地としての発展を見るに、その陰にふるさとを失った人々はおそらく少なくない。入植した65軒のうち、取材時に畑を続けているのは坂本さんの世帯のみとなっていた。
生まれの地を追われ、必死で開墾してもまた追われ、何度も危機に直面し、それでも土を耕し自給自足で生きていける環境にようやく辿り着いた彼女は今、「ここをふるさとにしたい」と言う。
 
一方、戦線から生きながらえ日本に帰国した岩間さんもやはり生まれ故郷には家も土地もなかった。戦後開拓事業のもと、一時は茨城県に入るも開墾があまりうまくは行かず、福島県葛尾村の山奥に長野開拓村として6世帯で入植し、山をひらき牛を飼い、畜産をはじめた。

原発の話題に入ってゆく。1960年ごろ、開拓村から20kmほど先の大熊町双葉町原子力開発の誘致が始まる。90年台には増設計画も上がり、いずれも大きな交付金と産業振興を見込まれた。増設計画のあった当時の双葉町長が「目に見えないリスクを背負っている事は確か」と明言なさっていたのが意外であった。学者や知識人であっても(むしろそうした流れに鋭敏であった人ほど)その輝かしい未来の技術に希望ばかりを抱いていた当時でも、やはり当事者となる立場の人間にはそれが孕む未知のリスクが肌感覚で分かっていたのだろう。
そして2011年3月12日、福島県第一原子力発電所1号機で水素爆発が起こる。
岩間さんは開拓村で爆発の音を聞いたと言う。開拓村のある葛尾村は即刻全村避難となった。岩間さんは遠い福島市内の体育館まで逃れたが、すぐにこっそり家に戻り「意地を張って1人でい」た。牛たちに毎日の給餌をする必要があったからだ。しかし間もなく警察や役所の人間が来、区域は日中限られた時間で通う決まりだと連れ戻される。避難所からの遠い道のり。2日に1度の餌やりでは牛はだめだった。
愛する牛たちが日ごと痩せほそり、汚染が分かってしまうと殺処分され、ひとまとめに石灰をかけられ、ブルーシートをかけられてゆくさまを、岩間さんは全て写真に収め、大きな写真紙にそれらを綺麗に現像した。6世帯いた開拓村の仲間たちはみな他界した。事故から4年が経った取材時でもいまだに日帰りの立ち入りしか許されない開拓村に、三春町の仮設住宅から通って、家や周辺の手入れをし、雪の吹き付けるがらんとした牛舎には毎回鍵をかけて帰る。いつまた住めるようになるかも分からないたったひとりの村を見つめ、「ここがふるさとだな」とつぶやかれていた。
 
満蒙権益、観光用地の開発、エネルギー政策。国策はいつも巧妙に本意を隠し、地方財政の弱みに漬け込み、住民を分裂させ、反対の声を重い蓋で閉ざすことで成り立ってきた。
そして見ないふりをしていたその代償が現実となった時、国はいとも簡単に人々を棄民する。
犠牲になるのがいつも決まった人であることが本作の主張だと思う。岩間さんの住む葛尾村が全村避難となったことも、坂本さんの軽井沢の土地が何度も奪われそうになったことも、不幸が偶然重なったという話では決してない。国とその恩恵を受けられる人間はいつも、歯向かうことのできない人たちにリスクを押し付け抑え込むことで安心して利益を貪ってきた。リスクを被る側がそこから自力で抜け出すなど非常に困難であることが、よくできた構造だと思わされる。
 

 
 

番組以外の主な参考

満蒙開拓平和記念館 - 満蒙開拓平和記念館ページ

「満蒙権益」と関東軍

避暑地としての軽井沢の誕生 | 軽井沢を知る | 軽井沢観光協会公式ホームページ(Karuizawa Official Travel Guide)

満蒙開拓移民 - Wikipedia

福島第一原子力発電所 - Wikipedia

 

幻の村 哀史・満蒙開拓 | 早稲田大学出版部 (番組ディレクター手塚孝典さんの著書)

番組『無援 ユッケ食中毒事件 遺族の8ヶ月』備忘録と感想

 

2011年12月30日放送、チューリップテレビ制作のドキュメンタリー番組『無援 ユッケ食中毒事件 遺族の8ヶ月』。

 

ユッケ食中毒事件は2011年4、5月ごろに起きた事件。

この頃の出来事を調べてみると、ビンラディンが死んだのが5月1日のことだった。

わたし自身は、震災の避難生活が終わり形は元の生活に戻っていたのに鬱のような状態から抜け出せずにいた時期でもあった。オサマ・ビンラディン殺害のニュースは激しく持て余し、社会問題への不毛なわだかまりに嵌まるのみだった。個人的にはそれは回復だったが、いずれにせよユッケ食中毒事件のニュースには全く意識を向けていなかった。

それでもこの『無援』で観られる事件当時の映像にはどれもなんとなく覚えがあり、きっと連日大きく報じられていたのだと思わされる。

 

この事件には、メディア映えの要素が重なっていた。

まず、おそらくこの時期すでに東京では震災の話題が下火になりはじめ、視聴者は何でもいいから新しいニュースを欲していたのではないだろうか(事件第一報は4月27日でビンラディン殺害のニュースよりも前)。

かつ、頻繁に焼肉店に行き生肉メニューを好む人たちにとって、食中毒は常に関心事であったろうこと。それも、自分が発症する可能性への不安というより、自分たちの食の楽しみに水をさす存在として危惧されていたように感じる。実際、この事件を機に生肉提供の自粛や規制基準の見直しなどが行われ、それを厳しいとする不満の声はいまだに聞かれる。

そして、焼肉店運営会社の元社長の、会見等でのエキセントリックな言動。

メディアの矢面に立たされた人間が平常な精神ではいられず失言をしたり目立つ動きをしてくれれば、おいしい映像だ。そして見る側は存分に笑いものにする。取り上げられている人は大抵は何かしら過失があってのことだから、それを免罪符にするように、もしくは報いだとでもいうように。

そしてインターネット上では、被写体から人格を取り除き”フリー素材化”しコンテンツとして消費する怖い風潮がある。動画サイトでmad動画のカテゴリを徘徊していると、境界線を曖昧にすることによって成り立つ文化の、しばしば倫理性を欠いた創作の温床となってしまう側面を目にしてきた。

ちなみに番組でも少しは会見や家宅捜索のシーンが紹介されるのだが、チューリップテレビの持っていた会見映像はというと、カメラの位置どりが本当に悪い。特等席を奪取することに心血を注ぐキー局メディアの背中と比して、あの会見や、元社長の姿を綺麗に映すことはニュースの本質ではないのだという局の姿勢が(撮影者自身は不本意だろうが)遠因として表れているように見えた。

 

さてそんなふうに事件がいくら騒がれようとも、家宅捜索、会見、入院していた被害者の死亡と葬儀……分かりやすい出来事を報じきってしまえば、メディアの注目は日々有り余るトピックの中でまた他へ移り、世間にとっては終わった出来事となってしまう。本事件では原因菌がなかなか検出されず調査が難航し、過失の根本が焼肉店から肉の卸売業者のほうへ行ったりしたのもその一因のように思う。

一時は大挙して富山へ詰めかけ競うように報じていた中央メディアが取り払っていった後、そこには取り残された被害者遺族の存在があった。

番組は、富山県砺波市の店舗で家族で食事をし、妻と義母が亡くなり娘と息子も一時意識不明となる大きな被害を受けた家族の、父親である男性の事件後の8ヶ月間を追っている。

 

遺族男性は実名と顔を隠して出演されている。それ自体は珍しいことではないはずだし、出したほうがいいのになどと思うわけではもちろんないのだが、短いカットではなく番組通しての密着であるためか、肉眼の自然な視界に対するモザイクの違和感や、名前表記の欄に「男性」としか書かれないことがやけに目につかえた。

そして男性が憤りや悲しみを吐露するたび、同時に顔が見えないことがかなり共感の障壁となっているのも感じた。心情を慮ることは対象が明確でなくともある程度でき、しかしそれによって湧いた自分の思いを向ける先が見つからないのだ。自分個人の感受性の足りなさなのかもしれないが、番組を最後まで観ると、このもどかしさは大事な感覚だったのかなと気付かされる。

 

また、男性のこうした扱いについてもだが、ナレーションが「わたしたち」と一人称でその時々の取材の経緯や状況を説明してくれるところに、報道と取材対象への誠実さを感じた。

「この日わたしたちは子どもたちへの取材を申し出ていました。男性に顔出し実名での取材も要請しましたが、いずれも子どもたちへの配慮から応じてもらえませんでした」といったように。

 

婿養子であった男性は、妻と義母を失うと周囲に頼れる人もおらず、事件後すぐは慣れない家事と遺品整理に追われ休職していた。そして生計を立てるためすぐに復職し、子供たちのご飯を作った後に午後出勤をするのが事件後の日常となっていく。

高岡市の鉄工所で働く男性の仕事風景、夏の風が通る作業場で電話先と何やら話しながら図面に鉛筆でさらさらと数字を書いていく。被害者には事件被害者としてだけでない人生があり、生活を続けていることを伝えるための描写だと思う。

一方で男性は将来の不安に襲われ、子供を突き放してしまうことにも悩んでいた。高校生である子供の進路の問題も出てき、「うちはもうそういう家庭になったがや」とカメラに弱音を吐く。

 

番組は行政の管理体制の問題を指摘するも、県の生活安全課職員は担当職員が少なく店舗を回りきれないというような言い訳をするのみで、不備を認めない。同程度の担当者数で富山県の倍以上の店舗を訪問しているというお隣の新潟県の事例を示し、検査を徹底していれば事件は起きなかったのではないかと問うと、突破口を見つけたかのような食い気味で「あくまで今回の食中毒と検査体制には直接の関係はない」と言い切る。

ただこうした流暢な返しは、口からいくらでも出せるお役所言葉だろう。取材者側は「まだ言うことがあるだろう」という意志をしかし言葉にはせず無言のままカメラを向け続ける。すると、この職員さん自身本当は検査に入らなかったことが良くなかったとは分かっているのだろう、しかしそれを認めることもできず、静寂に耐えかね「まあ……みんな、起きてからは(検査を)やるんでしょうが……」と脂汗をかきながら漏らすのだ。1時間の番組でここをこそ切らずに入れるところに、この番組の報道作品としての精妙さがある。

余談だが、自分たちの検査システムの説明をしてくれる新潟県の職員の方の何の後ろ暗いこともないさわやかな公僕ぶりが、それが普通のはずなのにやけに珍しく感じてしまって可笑しかった。

富山県の石井知事も事件について何度かコメントしているが、「県に法的責任はない、責任があるのは企業と国」と、県として被害者救済に働きかける意思はないようだった。ちなみに12月の定例会見では、質疑の場での追求のほかに、おそらく県政クラブ員でなく会見に参加することができなかった番組取材班が会見場前で知事の退出を待ち構え、さらに質問を試みていた。

報道姿勢という観点での印象に残ったところをもうひとつ話したい。この年10月に国は生肉提供に関する基準の見直しをし、全国の多くの店からユッケをはじめとする生肉メニューが姿を消した。新基準施行を報じるメディアはこぞって焼肉店に行き「ショックだわあ」と嘆く客たちの声を放送していたが、「わたしたちのこうした報道が遺族の気持ちを逆撫でしていました」と言って、ニュースを観た遺族の声を流す。チューリップテレビの当時のニュースは分からないが、他メディア批判にしたくなりそうなところをあくまで自分たちを含めた報道全体の課題として反省する姿勢が偉い。

 

うやむやなまま事件は終わってしまうのではないかという焦りからか、男性は徐々に元社長や県に対する怒りをあらわにするようになる。語気を荒げたり、また、かなり死を隣に感じている不安定さ。

「死ぬことって怖くないですよ。でもそんなわけにはいかないから、絶対に無いですけど……”はがやしい”ですよ」

はがやしい……これが男性の率直な気持ちのように思う。それでも小さなタオルハンカチを一枚ずつたたみ、子供たちの前では決して不安を口に出さないところに、親としての不器用な優しさと責任感の強さがあり悲痛だ。

 

高校生の娘と中学生の息子、2人の子供たち。息子さんはテレビでサッカー番組を見ている様子などが何度か映されるが、娘さんの存在はほとんど捉えられることがないところに、勝手に彼女の気持ちを考えてしまう。というのも、そもそもこの家族が焼肉店へ食事に行った4月23日は、娘さんの誕生日だったそうなのだ。当然娘さんは全く何も悪くないが、どんなに他人が否定してもきっと本人はいたく後悔していることだろう。語弊があるがわたしはこの事件で一番傷ついているのは彼女ではないだろうかと思いながら番組を観た。

 

また余談。

実際に店で肉がどのように処理されていたのかを説明するため、チューリップテレビが撮影した砺波店の店内や調理場の映像が出てくるのだが、この撮影日が4月22日だそうなのだ。

食中毒には潜伏期間があり、砺波店経由での最初の発症例が同月20日、しかし医療機関から保健所に感染疑いの患者がいるとの報告があったのは26日で(これは別に遅いという話ではない)、なおかつ同店舗経由の患者が再び報告されたことによって調査を開始し、県が砺波店の営業停止と報道機関への公表をしたのが27日のことだと伺えるので、この映像が何の文脈で撮影されたものなのかがよく分からない。映像を見るに、事件とは関係のない、店舗を紹介するニュースのコーナーか何かの素材撮りだったのではと思うのだが、偶然というのか、メディアそれも地元放送局ならではのアーカイブスの潤沢さというのか。

映像では思いきり素手で肉を触ってカットをしている様子などが記録されていて、それは店のマニュアル通りであり店員も怠惰でそうしているわけではないからこそ堂々と撮影させているのだろうが、不思議な映像だった。

また、男性家族が砺波店を訪れたのが23日のことなので、例えばこの22日の撮影で管理の杜撰さに気づいたり最初の発症患者の情報を入手し因果関係に踏み込んでそのことを報じるのか保健所かどこかに指摘するようなことをしぎりぎり間に合うみたいな可能性もあったのだろうか、などと考えてしまった。当時の衛生感覚も取材等の実際の状況も分からず、特に本質ではない話なので、あまりどうでもよい考えだが。

 

12月。この頃男性は少しずつ、事件を発信したい、各所の取材に協力したいといった気持ちを強くしていっていた。ずっと事件の話題は避けるようにしてきた子供たちに対してもメディアに取り上げてもらう重要性を伝えようとしている、といったことを話されていた。

そしてナレーションが入る。

「わたしたちは改めて子どもたちへの取材を申し出ました。それは叶いませんでしたが、嫌がる我が子への配慮に悩んだ末に、男性が少しだけならとカメラに顔を出すことを許してくれたのです」

 

夕暮れの河口。撮影の口実で垂らされた釣り糸の先に所在なさげに目を落とす、男性の素顔があった。ここまで番組50分ほど、モザイク処理の輪郭に遮られて手元に溢れかえっていたいろいろな感情が、ようやく行き先を見つけたような思いだった。

顔を知ることがその人に人格を認めるためにどれだけ大きな影響を与えるか。だからこそ男性のこれまでの「出さない」という選択とこの時の「出す」という選択があり、取材者側が何より顔にこだわるのだ。

そして8ヶ月の取材でおそらく初めて、この質問を向ける。

「あの日店に行ったことを後悔していますか」

男性は澄んだ視線で言う。

「後悔していても始まらない」

 

わたしがこれを視聴した2021年の、事件から10年として出された新聞各社の配信記事には、顔と名前を出して取材を受ける男性の姿があり、彼が本番組取材の後、別の遺族らと民事訴訟に踏み切り長い闘いの場に入っていっていたことが分かる。それを知っていたからでもあるだろうが、「後悔しても始まらない」と答える男性の表情には、想像できないほどの悲しみと孤独や経済的な困窮に苛まれながらも自ら進んでゆこうとする、悲痛な決意が見えた。

 

「後悔していますか」の質問には、同局制作『沈黙の山』での「山小屋としての既得権益を守るためですか」を連想もして、膝を打った(詳しくはこの番組よりは辿り着きやすいであろう『沈黙の山』をぜひご覧いただきたい)。

裁判を起こしているわけでもない遺族の生活風景それ自体は、もう私たちにとっては事件とは特に関係のない、いち他人の人生の範囲だとも言えてしまう。会社として日々のニュース作りに奔走しながら、どんな動機、どんな予測があってこの取材を続けていたのだろうか。

なんにせよこの最後の取材は、取材者側にとっては8ヶ月間の積み重ねの上にある、本当に平たく言えば一つの結実だろう。男性に寄り添いつつその不安定な心境の変化を鋭く見極めていて、待つときは待ち、聞くときに聞くべきことを聞く、その機を見る力だと思った。そして「被害者遺族にとって事件は終わらない」と言いながらも番組を作る以上どこかで区切りを付けなければいけない、その決断がこれであることに、制作者の矜持を見せられた思いがする。

 

その全ては、取材技術という言い方もできるかもしれないし、でもその根本は取材・制作者の優しい人間性なのではないかと思う。これは勝手な願望だが、多くのマスメディアと世間から忘れ去られていき謝罪も賠償もなされないまま取り残された男性のことを「誰にも相談できず」「たったひとり」と映そうとするその取材者だけは、常に男性の隣にいたわけだ。夜仕事を終えて帰宅する車の中で、助手席の記者にさんざん弱気な言葉を漏らした後で、帰宅すると子供に穏やかな声をかける男性の姿を見ていると、断続的な密着取材の機会は男性にとって少しでも救いになっていたのではないか、そうであったらいいな、と思う。

 

以上です。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

あとがき

ちなみにチューリップテレビだからということで見つけた番組だったが、序盤の事件概要の説明シーンで流れる穏やかなバイオリン曲を聴いたとき、この感じは、と思いスタッフ欄を確認すると、構成・編集に五百旗頭幸男さんがいらっしゃった(構成・編集というのがどういう範囲のことなのか、わたしはよく分かっていない)。要所要所のインタビューに入られていたのも声から分かり、やはりこう何かしら出されるものだなあ……などと思ってしまった。全ての判断に疑念を怠らないというような素晴らしさの上に、どこかセンスが抜けている方だと素人ながらに感じる。五百旗頭さんが手がけられた他の作品の感想記事をいくつか、早く公開したいので書くの頑張る。

 

番組以外の主な参考

フーズ・フォーラス - Wikipedia

飲食チェーン店での腸管出血性大腸菌食中毒の発生について(pdf)

5人死亡のユッケ食中毒から10年、遺族「誰も謝罪にも墓参りにも来ない」読売新聞オンライン

えびす集団食中毒事件 思い届かず近づく10年 遺族語る|富山新聞