ズルカの記事

番組『棄民哀史』備忘録と感想

 

2015年5月27日放送、SBC信越放送制作のドキュメンタリー番組『SBCスペシャル 棄民哀史』の備忘録と感想。
 
本作は2組の元開拓団の方々の証言と、長野県内にある満蒙開拓平和記念館の職員が2014年に行なった中国黒龍省への視察の映像を中心に、国策に翻弄され続ける人々の苦難の実像を伝えている。

現在の中国東北部満州へ渡った「満蒙開拓団」。入植者の数はおよそ27万人、中でも全国で最も多く人を輩出したのが長野県。
世界恐慌の1930年代、県内自治体は財政難にあえいでいた。日本でも農作物の価格低下が起こり、特に長野の特産であった繭の価格が暴落したことで、県内多くを占める養蚕農家は大打撃を受けた。
生産量を増やすのは容易ではないが、作付けあたりの人口が少なくなればいい、つまり人減らしをしたい。国の移民政策はそこに付け入った。加えて当然個人にも自治体にも大きな交付金が発生する。さらに大日向(おおひなた)村では、本や舞台など巧みな広報戦術もなされていた。
「困難を上回る大きな可能性がある」
先の見えない貧困の中にいた村民は、そんな謳い文句に希望を抱く。住民どうしは分裂し、それは入植へ向かう後押しにもなっただろう。
満州へ渡るか、止まるか。どちらにせよ家単位の判断に女と子供の意思は反映されなかった。証言者の1人、岩間政金(まさかね)さんも当時幼少にして、移民に積極的であった父親に付いて行かざるを得なかった。

 開拓の実情は、国が安く買い叩いて手に入れた土地を割り当てられただけであった。土地を奪われた現地の人々はさらに山奥の未開墾の土地へ逃れざるを得なくなる。もしくは、土地を奪っておいて杜撰な開拓計画のために人手が足らず、結局もとそこを所有していた人々を小作人として使う例もあったらしい。内地では困窮していた人間がここでは途端に地主となり、現地人は自分たちの言葉を学び話している。五族共和を掲げつつ、開拓団は指導的役割だとされ、日本人の優越性を刷り込まれた。
 
1945年8月9日、ソ連侵攻。岩間さんら開拓団の成人男性は根こそぎ最前線へ招集された。農業移民は戦闘に参加する事はない、そう聞いていたのに。満蒙開拓の実態は、中国の植民地支配とソ連国境防衛の捨て石だった。日本は敗戦を迎える。
敗残兵の過酷。岩間さんらは捕虜を逃れるため山谷をさまよった。ソ連兵の銃弾に倒れる者、飢えで亡くなる者、自決をする者。岩間さんはただ逃げ続け、ようやく長春のまちにたどり着いたのは本隊を離れてから半年後のことだった。
 
戦中は関東軍の残虐な暴挙に耐えるしかなかった現地中国の人々、武装解除によって解放されたその憎悪の矛先となったのは、取り残された開拓団の多くの女性や子供、老人であった。大日向村の分村移民団の一員であった坂本レエ子さん、その夫の幸平さんらは過酷な逃避行の末、難民収容所に入る。しかし中国の厳しい冬の寒さに、周囲は次々と命を落としていく。収容人名簿の名前の上に赤線を引き、横に日付が書かれる。それがその人物の死亡と、存在したことの証明だった。
坂本さんもそこで母親を亡くした。遺体を外に出しておくと、現地の人間が「ごみのように馬車に乗せて」いき、裸にされひとところに積まれた。
自らもう何も所有せず極限状態にある中でも、遺体が服を剥がれ寒風に曝されることは尊厳の蹂躙であった。インタビューを受ける坂本さんは涙で言葉を詰まらせながらも、それを現地の人間たちへの憎しみに繋げぬよう、むしろ無自覚であっても侵略に加担してしまったことへ罪悪感として語り、日本に戻ることなく亡くなっていった開拓団の人々を悼んでおられた。
 
ふるさとに帰ってくると、「開拓民」から「引き揚げ者」となった彼らに居場所は残っておらず、寺や公民館に身を寄せる。誰かの物が無くなったりすると「あの人たちじゃないか」と言われた。
国は戦後緊急開拓事業だとして、食糧難を乗り切るために、今度は国内で農地開拓を募る。ここでもやはり、居場所を求める引き揚げ者は参加するよりほかなかった。坂本さんら大日向出身の引き揚げ者のうち165人(168人とも)が、大日向から20kmほど離れた軽井沢へ再入植した。軽井沢は浅間山のふもと、火山灰の土地。手で林をひらき、強酸性の土を懸命に耕した。
しかし50年代には安保のもとで米軍の演習基地化が計画される。この計画には坂本さんら入植者の方々だけでなく、県内全体で反対闘争の大きなうねりがあった。
反対行進の映像には女性が目立つ。「女性を苦しめる演習地反対」の横断幕は、米兵による住民女性への加害を危惧する心情が見てとれる。結局計画は取りやめになった。しかし高度経済成長の80年台になると、今度はゴルフ場建設の予定が舞い込んでくる。
共に海を渡り、演習地計画には一致団結して反対した開拓村の仲間が、このとき2つに分裂した。作物を育てるのには決して向いていない土地、補償を受け取って明け渡した方がいいのではないかという意見を持つ人も当然いたのだ。
坂本さんの土地は奪われることはなかったが、現在の軽井沢の高級避暑地としての発展を見るに、その陰にふるさとを失った人々はおそらく少なくない。入植した65軒のうち、取材時に畑を続けているのは坂本さんの世帯のみとなっていた。
生まれの地を追われ、必死で開墾してもまた追われ、何度も危機に直面し、それでも土を耕し自給自足で生きていける環境にようやく辿り着いた彼女は今、「ここをふるさとにしたい」と言う。
 
一方、戦線から生きながらえ日本に帰国した岩間さんもやはり生まれ故郷には家も土地もなかった。戦後開拓事業のもと、一時は茨城県に入るも開墾があまりうまくは行かず、福島県葛尾村の山奥に長野開拓村として6世帯で入植し、山をひらき牛を飼い、畜産をはじめた。

原発の話題に入ってゆく。1960年ごろ、開拓村から20kmほど先の大熊町双葉町原子力開発の誘致が始まる。90年台には増設計画も上がり、いずれも大きな交付金と産業振興を見込まれた。増設計画のあった当時の双葉町長が「目に見えないリスクを背負っている事は確か」と明言なさっていたのが意外であった。学者や知識人であっても(むしろそうした流れに鋭敏であった人ほど)その輝かしい未来の技術に希望ばかりを抱いていた当時でも、やはり当事者となる立場の人間にはそれが孕む未知のリスクが肌感覚で分かっていたのだろう。
そして2011年3月12日、福島県第一原子力発電所1号機で水素爆発が起こる。
岩間さんは開拓村で爆発の音を聞いたと言う。開拓村のある葛尾村は即刻全村避難となった。岩間さんは遠い福島市内の体育館まで逃れたが、すぐにこっそり家に戻り「意地を張って1人でい」た。牛たちに毎日の給餌をする必要があったからだ。しかし間もなく警察や役所の人間が来、区域は日中限られた時間で通う決まりだと連れ戻される。避難所からの遠い道のり。2日に1度の餌やりでは牛はだめだった。
愛する牛たちが日ごと痩せほそり、汚染が分かってしまうと殺処分され、ひとまとめに石灰をかけられ、ブルーシートをかけられてゆくさまを、岩間さんは全て写真に収め、大きな写真紙にそれらを綺麗に現像した。6世帯いた開拓村の仲間たちはみな他界した。事故から4年が経った取材時でもいまだに日帰りの立ち入りしか許されない開拓村に、三春町の仮設住宅から通って、家や周辺の手入れをし、雪の吹き付けるがらんとした牛舎には毎回鍵をかけて帰る。いつまた住めるようになるかも分からないたったひとりの村を見つめ、「ここがふるさとだな」とつぶやかれていた。
 
満蒙権益、観光用地の開発、エネルギー政策。国策はいつも巧妙に本意を隠し、地方財政の弱みに漬け込み、住民を分裂させ、反対の声を重い蓋で閉ざすことで成り立ってきた。
そして見ないふりをしていたその代償が現実となった時、国はいとも簡単に人々を棄民する。
犠牲になるのがいつも決まった人であることが本作の主張だと思う。岩間さんの住む葛尾村が全村避難となったことも、坂本さんの軽井沢の土地が何度も奪われそうになったことも、不幸が偶然重なったという話では決してない。国とその恩恵を受けられる人間はいつも、歯向かうことのできない人たちにリスクを押し付け抑え込むことで安心して利益を貪ってきた。リスクを被る側がそこから自力で抜け出すなど非常に困難であることが、よくできた構造だと思わされる。
 

 
 

番組以外の主な参考

満蒙開拓平和記念館 - 満蒙開拓平和記念館ページ

「満蒙権益」と関東軍

避暑地としての軽井沢の誕生 | 軽井沢を知る | 軽井沢観光協会公式ホームページ(Karuizawa Official Travel Guide)

満蒙開拓移民 - Wikipedia

福島第一原子力発電所 - Wikipedia

 

幻の村 哀史・満蒙開拓 | 早稲田大学出版部 (番組ディレクター手塚孝典さんの著書)