ズルカの記事

番組『能登の海、風だより』備忘録と感想

 
1993年5月31日放送、石川テレビ放送制作のドキュメンタリー番組『能登の海、風だより』の備忘録と感想。

 

『天狗の住む山』、『奥能登 女たちの海』の赤井朱美さんが制作された作品ということで知った。それまでに珠洲原発関連で別の局制作の番組をいくつか視聴していたのだが、いずれも開発と住民闘争の典型である「給付金を受け取って土地を明け渡す人たち(組合)」と「要求を受け入れず運動を起こす人たち」 との対立や分裂を強調する、ないしそうしたことへの嫌悪感を助長する描き方をされていた点で、報道の責任を放棄した非常に粗末な作品だったことにもやもやとしていた。

問題を批判的に描こうという意図は感じるものの、対立による盛り上がりに反射的にカメラを向けるばかりだったために、怒れる無名の地元住民たちの表情を執拗に捉えることとなっていたのだと思う。
トーンポリシングという言葉も流行ったが、感情をあらわにすること特に怒りへの冷笑や、生活を政治の文脈で語ることをイデオロギッシュな行為と感じてしまう感覚が蔓延している。
それに、地方過疎地域に対する閉塞的で陰湿な田舎の村社会という印象も加わるために、権力による地域の混乱を外部の人間に向けて取り扱うときに、住民の側に感情移入して問題を受け止めてもらえるような描き方をするのは難しいのだろうなと思った。

 

しかし前段のようなことを、本作は巧みに回避していた。それは赤井さんの、能登の自然や人々への愛の詰まった取材と練られた番組構成によるものだったと考える。

ご高齢でありながら二人三脚で漁をされている高森さん夫婦。
快活でお世話焼きな行商の定谷(じょうや)のおばちゃん。
珠洲市唯一の助産院を営む助産師の中田さん。
この3組の人たちが能登の厳しい冬を黙々と耐え、春の実りに喜び、盛夏はのんびり人と語らい生きる姿を本編の大部分を割いてたっぷりと映し、そこに後半から少しづつ誘致の話題を挟んでいくことで、珠洲の環境やそこに住む方々の人となりを知った状態で、それが侵されていく流れを見ることになるのだ。

 

また序盤でも、当時取材中に能登半島沖を震源とした地震による災害があったようで、定谷のおばちゃんが「戸が開かなくなって困ったね」なんて言ってるシーンを入れているのなど実に暗示的であった。北陸に地震のイメージは薄かったが、このタイミングで震災に見舞われたこともただの偶然ではないなと思わされる。
原発問題がテーマにあると知って観ていると、高森さん夫婦がカマスなんかを干しながら「自然の太陽と風に干すの」と教えてくれたり、「海に行けばなんでもあるんや」と話されていたりするのを入れ込むのもうまかった。

 

原発の影は約1時間の本編中20分を過ぎたあたりにようやく入ってくる。まず唐突に漁業組合の建物の入口に建設計画事務局の看板が掛かっている画が差し込まれ、住民それぞれの家の扉に「推進派おことわり」などの札が掲げられて地区が二分していく様子を伝えている。
他方では海のお祭りの日を迎えた朝に散歩する住民たちが「いい祭りになったね」と和やかに笑い合うシーンがあったりして、みんなが顔見知りで助け合いながら暮らしているこのコミュニティを行政と電力会社が乱していくことに憤りを感じたし、それを田舎の村社会の怖さだと言ってしまうことは絶対に間違っていると思った。

 

30分を過ぎたところでついに主軸となる3組の画角にも変化がある。
珠洲市では、推進派と反対派の候補の一騎討ちとなり建設計画の進退に大きく関わってくる市長選挙が始まっていた。浜辺で仕事をする高森さん夫婦の後ろに選挙カーが通り、スピーカーから投票を呼びかける大きな声が響き渡る。望遠レンズで迫力のある画角。
 
青空の下、横断幕を持って阻止行動をするのはやはり大半が女性たちなのだが、そこでは定谷のおばちゃんも先頭切って声をあげておられた。今までのシーンで、おばちゃんは行商のお得意先の人たちやその家の子供たちにいつも明るく声をかけ世話を焼いていて、みんなに愛され地域を愛しながら生きていることが伝わってきていたから、デモ行進しているのも地域を思うあのお節介の延長にあるものとしてとても自然な姿として映った。怒りの声を上げる人は強い政治思想を持ったアクティビストなわけではない。みな子供たちから安全や豊かな環境を奪ってはならないという一心から、圧倒的な力で進んでいく建設計画をなんとか止めようと自分自身の身体でもって抵抗している。
 
「安全なもんならこんなとこに作らんでもなあ」、高森さんから朴訥とつぶやかれたその言葉には、小出裕章さんが原子力研究を突き詰めた末に女川原発の建設計画に対して抱いた疑問と同じ響きがあった。アカデミーの場で体系化された論理を学び専門用語を駆使せずとも、地球の土地を借り、自然に逆らわずに生きてきた感性が明確な答えを持つのだなと羨ましくもなった。弱った身体を支え合いながら慎ましくわかめを獲っているお二人を見ていると正直、電力会社のほとんど脅迫のような説得工作に負けてしまうのではないかとハラハラしてしまっていたのだが、高森さんは早い段階から、自らの土地を他の住民との共同所有にするなどし淡々と借り入れに対抗していた。
 
助産師の中田さんは、助産に携わった何人ものお母さんたちをその後も長く気にかけサポートしておられた。夫を亡くしたばかりの1人の自宅では進んでいく誘致の行方に不安の声を漏らしながらも、今まで通りお母さんたちの家を分け隔てなく回っては、子供の様子を聞いたり子育てのアドバイスをしたりなど自らにできることを取り組んでいた。

さっきまで穏やかに勤勉に生活していた人たちが三者三様にみな戦っている姿は、かっこいいなとも思いながら、なぜ彼らがこんなことをしなければならないんだという憤りと虚しさを感じた。

 

利権者側の土地確保のための本当に回りくどい策(それは大阪や京都の方にまで話が及ぶ)を調査するターンでは赤井さんのジャーナリスティックな面が見られた。望遠で撮らせておいて推進派の関係者宅に単身乗り込み聞き込みをするシーンなど緊迫感がある。また、電力会社の説得工作などは周囲に気づかれないようにと夜間に行われることが多く、そういったシーンの画面の真っ暗さが太陽と共にある人々の暮らしと真反対で、不自然さが強調されていた。

 

一方で、赤井さんの被写体への愛のある視線が強く伝わってきたシーンもある。中田さんの助産院に陣痛で飛び込んできた1人の妊婦さんの出産シーンだ。
妊娠出産に対して言われる「生命の神秘」だとか「母親は偉大」などの言葉は、女というものを妊孕性でのみ尊ぶ意識を温存するものだろう。また、そうした言い訳をしながら出産や授乳等のデリケートな場面をわざわざ映して結局好奇の目で消費されてしまうようなことにも不快感しかないのだが、本作でじっくりと描写される映像は、赤井さんの妊婦さんへの共感をすら伴ったような心の寄せ方と、中田さんの仕事へのリスペクトが伝わる、素晴らしいものだった。
中田さんは自然分娩にこだわっており、開業時からずっと、薬剤や近代的な器具を一切使わずに素手と砂時計のような形の古い聴診器のみで出産を完結させてきた。
日本海の風が吹きすさぶ冬の深夜に、冷たい手で妊婦さんに当たるとびっくりさせるからと聴診器を持った自分の両手ごとストーブにかざして温めている様子から始まる。
妊婦さんの苦しそうな呼吸と、百戦錬磨の中田さんの落ち着いた語りかけ、研修に来ているという若い看護師さんの、中田さんの神の手を目に焼き付けつつも冷静にサポートにあたる声だけの空間が広がる。真に迫るナレーション。命に関わる緊張感と愛しさ、この助産院にずっと続いてきた営みに心を震わす赤井さんの気持ちが伝わってくるようだった(途中からこそこそ入室してきて妻を励ますでもなくボケッと突っ立っている夫らしき男の姿も収めていらした)。

 

インタビュー中だというのにスタッフさんの分のお茶を入れてどうぞと出してくださる定谷のおばちゃんの映像をそのまま使っているのや、高森さんの所有する山の木々を見るなり「ちゃんと枝打ちしてあるね」と声をかけるなど、赤井さんが長い期間の取材で現地に積極的に溶け込んでいき、一人ひとりと取材対象以上の関係になろうという姿勢で関わっていたことを感じたし、そうしたほのぼのとしたやりとりを、失われてゆくものという表現ではなく番組中終始続けることで、脅かされはしても崩壊したわけではない現地のたくましい暮らしぶりがこれからもずっと続いてくことをイメージした。実際、この後本当に長い時間がかかりはしたが珠洲原発の建設計画は凍結することになる。

 

この番組が、当時放送されるにあたって原発問題を扱う番組だというアプローチはどの程度されていたのか、視聴者がどのように受け止めたのかはとても気になった。タイトルだけで考えると、若干の不意打ち的な狙いもあったのだろうか。いずれにせよ、まさに闘争中の問題をこうしたトーンで扱う番組はあまり観たことがなかったので驚きがあったし、工夫が凝らされ思いのこもった良作だった。

 

 

番組以外の主な参考

珠洲原子力発電所 - Wikipedia

能登半島沖地震 - Wikipedia

原発建設問題で揺れた石川・珠洲市。それでも生きる姿勢は変わらない 第2回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品|FNNプライムオンライン(←番組の要約)