ズルカの記事

【日記】虫と女のスイートホーム

絶叫が、部屋の壁を貫通してわたしの心臓を貫く。
深夜。どうか周囲の家の人々に何事かと思われていませんように祈りながら自室を出る。外は雨、このごろ気象は怒りの滲むような粗暴になり、雨にしても極端に猛烈な風雨になることが多いように思う。室内を震わせた叫びも外壁を出ては、水が空気の振動を切断し、風が音の矢を吹き戻し、幸い騒ぎがよそにまで届くことはなかったようだ。廊下の梁に吊られたランプのほの明かりが揺れている。

自分が借り暮らしの身でありながら、この家を守れる人間にならなければという思いが湧き上がってきたのはいつともない。
そのとき無意識に使った「家」が指すものは、同居人のことであるだけでなく、場として、機能としてのこの居住空間のことでもあったと思う。同居人との時間が大して永続的なものでないことは分かっている。

大家さんの男性はとても頼りになって、同居人は何かあるとすぐ彼に連絡しようとする。その度にわたしの勝手なポリシーがぶすくれる。女だけの共同生活というのは、男に頼る選択肢が簡単に出てくるようではいけないと思うからだ。
だから「家を守れる」というのは、たとえば変な訪問者に対応したり、ご近所さんと良好な関係を築き、そのために生活圏で媚びるような善行に努め、ガーデニングも防犯になるというから始め、インフラや家電に不調があればある程度は直したりもしくは適切な修理依頼をできる手段を持っていたりすることと捉えており、実践している。その一つに害虫駆除もある。

虫の発見から駆除までのディテールは割愛するが、この日も同居人を部屋から追い出したのは全長6cmほどのアシタカグモだった。
はい、退治したからもう安心ですよー、と今はもはや黒い小さな粒となったそれをティッシュに包んでゴミ箱に入れていると、後ろから「ごめんねえー」と声をかけられる。いやいや役に立てるならありがたいですよなど返そうとすると、「虫さん、殺してごめんねえー」と。

ごめんねと言ったのだ。
わたしは虫が平気だ。その平気というのは気にせず放置できるということ、ほぼ無差別に放り込まれる義務教育時代のクラスの人間とか、夜行バスの待合所に居合わせる人たちへの感情なんかと同じで、互いに干渉しないから共存できるってだけである。殺すとなると違う。人間よりも圧倒的に生存本能に振り切り生命を繋ぐ目的に洗練された虫は、死の危険を感じた時には一世一代のエネルギーを発揮して、すごい速さで動いたり、飛んで向かってきたりするのだから。それはたとえ虫が大好きな人でもちょっとびびることではないだろうか。
わたしだって殺すの嫌なのだ。でもお願いされるから、殺してるのだ。雑草取りにすら痛みを感じていた、機械的な正しさにがんじがらめになっていた過去の自分から成長して、でもやはり殺生は気持ちのいいものではなく、それでもわたしは、あなたの助けになりたい、この家の役に立ちたい、ここにいてもいいよって言われたい、あれやっぱり自分のためかなあ。それでもごめんねえなど、あんまりではないか。

彼女があれだけ忌み嫌っている虫に対して抱くごめんなさいという感情を、間違ってはいないと思う。
だからこそ、殺しておいて、謝る権利はないのだ。まして他人に手を下させて。謝りたいと感じたのなら、しかしその気持ちを言葉にすることが許されぬ苦しみを抱え込んで黙らなければならない。それが懺悔というもので、せいぜい快適さのためにする殺生の最低限の仁義ではないかと思う。

……てなことを、同居人に面と向かって言ったりはしなかった。
しかし彼女はその後、相変わらず昼夜の別なく突然静寂を切り裂く叫びを上げながら部屋を飛び出すと、自分で殺虫剤を取って戻り、ひー、うええ、という呻き声と1本使い切るんじゃないかというくらいの噴射の持続音がようやく途切れた後にまた廊下に出てはゴロゴロと掃除機をひいて戻り、それで死骸を吸い取って、となんだか1人で処理をできるようになっていた。わたしがリビングで読書をしていると、ティッシュで山盛りになったちりとりを神妙に握りしめながら音もなく入ってきて「殺したあ(涙)」とゴミ箱に捨てていったこともある。わたしは彼女のそういうところが好きだし、羨ましいなと思う。
中島みゆきさん作詞のももいろクローバーZ『泣いてもいいんだよ』の「泣き虫な強い奴なんてのがいてもいいんじゃないか」という歌詞が好きだ。何かを乗り越えて強くあるために、弱音を吐かず動じない姿勢をとる必要はない。怖いとか、悲しいとか、辛いとか、ネガティブな気持ちを全てその場で発散しながら、頭の中は冴え冴えとして自分をコントロールし問題に対処できるのは、強い人である。

むしろわたしが弱くなった。放置するなら平気だった虫も、ちょっと顔を上げた時に目の前にいたりだとか、天井から降ってきたりだとかでひゃっと驚かされるのを何度も何度も重ねているとトラウマ的な身体反応が発動するようになった。お風呂場で遭遇するとその後しばらくはお風呂のドアを開けるのも億劫になっているのに、「さすがに怖くなってきたよー」くらいは言えるものの今まで余裕ぶっていた手前ぎゃーと声を上げたり及び腰見せることについブレーキをかけてしまい、行動は平然を装いながら心臓をバクバクさせている。

思えばずっとそうで、わたしは今まで、人と関わることは強迫感を原動力としてきた。今お金が発生しているんだとか、他の誰でもいい枠を自分が占有しているんだとか思うと、少しでも妥協したらがっかりされる、失望されたくない、居場所を失いたくなくて、全力で身を粉にし、それでなんとなく形になっていそうなうちは嬉しいから苦痛なんて感じない。でも自分の全力など人並みに遠く及ばないので日の経つごとに綻びが出てき、ああ呆れられていると察して恐怖感といたたまれなさで少しづつひび入っていく心が、ある日一気に崩れて終わる。
自室はゴミも物も溢れかえったとんでもない荒れ放題なのにそれ以外の他人の目につく場所は隅々までピカピカを保っているのも、そんな不健康の表れかもしれない。この家を守れる人間になりたいと思ってやっているさまざまなお節介が、無理しているわけでないつもりなのは面倒とお払い箱を無意識に天秤にかけて前者の方が圧倒的に楽だからというだけなら、これもいつか何もかも嫌になってしまう時が来るのかな、と不安になったりする。

本格的な夏を前に、シリコンガンとマスキングテープ、スポンジシートで家じゅう目につく隙間という隙間を埋めた。それでも虫にとっての出入り口はいくらでも残っているんだろうけど、手を打っているぞという満足感が前向きな気分にさせた。退治するのが怖ければその回数を減らすための工夫をする。何かやるにしても自分も我慢しない方法を考えられるようにしようと思った。大好きなこの家にずっといられたらいいな。

 

 

 

余談として、ターミナル感覚で虫たちの行き交うガバガバ我が家に数年住んできたわたし流、かなりしょぼい殺虫剤心得。

壁や天井に発見するアシタカグモやムカデ・ヤスデの場合。まずは射程距離の長い威力抜群の殺虫剤(大抵ゴキ用だがなんでもいい)を単発して風圧やスプレーの霧の粒を接触感知させ驚かせて床に落とす。輪投げみたいに「届けっ」というイメージ。そしたら冷却タイプの殺虫剤に持ち替え、思い切って距離を詰め今度は連続で2秒も吹きつければ完全に仕留めることができる。これが家計にも身体にも優しいと思う。

殺虫剤は立体機動装置の気分で使う。同居人の使い方だといわゆるふかしすぎでガス切れ死亡。『進撃の巨人』でなんか最初の頃の一瞬だけ、「立体機動の扱いに長けているジャン」みたいな設定があった気がするが、あれどのくらい反映されていたのかなあ。